機材にも時間にも、そしてライバルにも恵まれた

それまでは、『MS-DOS』で、ちょっとマニアックな人が、家で『Nifty-serve』とかのいわゆる「パソコン通信」を嗜んでいたような時代です。28800bpsの『高速モデム』で、家の電話から「ピーーーギャーーーー!」って(僕はもっとマニアックだったので商用ネットじゃなくて、いわゆる個人運営の草の根ネットと言われるようなところに参加してたりもしましたけど)。

そんな時代背景もあったりして、今であれば、パソコンやOSの仕組み、ネットワーク、プログラミング、インターネットっていうような、いわゆる「情報産業」のみに特化した授業を持つ学科とかにもなったのかもしれませんけど、当時の授業でいえば、まだどちらかというと「電子」のほうが単位数としては多くって。

電気回路、電磁気学、電子デバイス、集積回路、みたいな。

オエー。

久しぶりに書いただけで当時を思い出してクラっとしましたけど、そのあたりの授業も本当にからっきしダメで、マジで苦労しました。っていうか、一応は全単位を取得して、留年もなく、ちゃんと卒業したけど、何も覚えてないまである(どや顔)。教科書として使われる専門書が難解な書き方過ぎるのよ。もうちょっとわかりやすく書いてよ、ねえ。

ですけど、プログラミング技術みたいな、情報系の授業では、水を得た魚みたいになってましたね。もともと中学校の頃から、雑誌投稿するレベルでプログラムコードを書く基礎を勉強していた自分だったので、それ系の授業とか試験とかは比較的理解も早く、成績も比較的良かったです。

それでもやっぱり、世間は広い。県内中から僕よりもはるかにスキルが高い人が集まっていたりもして、「そこでも俺は負けるのか!!」ってちょっと悔しくなったりもしたり。僕はBASIC言語から入った人間でしたけど、入学したころからC言語(難しいけど色々できるプログラミング言語とでも思ってください)とか覚えてるヤツ、いたもんなあ。

そんな闘争心もあってか、「もっとプログラムのコーディングについて勉強したい」「もっと自由にいろんなアプリケーションが作れるようになりたい!」と思ってた僕は、授業で学べる量の知識や実習では飽き足らずに、「電子情報工学研究部」という大層な名前の部活に入ります。

まあ、名前には仰々しさはありますが、「プログラムとかそういうのを自由にやる」みたいな感じの部活でした。幸いというか、専門系の学校だけあって、パソコンなどの機材は潤沢に揃っていて、「授業以外の空き時間は自由に使える」といった恵まれた環境もあり、僕はすごく長い時間をその場で過ごすこととなるのです。

さて、今回の話はこれにて閉店。次回も、パチンコを打つことになる「までの」、僕の人生にお付き合いください。

『1億2000万分の1の激アツ人生』は次回5/24(日)更新予定です、お楽しみに。