鶴田の華やかな試合に惹かれた川田利明
田上戦後、ダニー・クロファットを4月2日の豊岡市総合体育館においてバックドロップで葬った鶴田は、6日の大阪府立体育会館で川田との初一騎打ちに臨んだ。
川田にとって、鶴田はプロレスのイメージを変えてくれたプロレスラーだった。小学生の頃、父方の祖父母の家に家族で同居していた川田は、プロレスが嫌いだったという。プロレス好きの祖父は土曜の夜には全日本プロレス中継を観ていたが、川田は裏番組の『8時だョ!全員集合』を観たかったからだ。
その後、父が亡くなり、祖父母の家を出て、母と妹との3人暮らしになった川田は中学2年生の時、それまで嫌いだったプロレスを何気なしに観た。それは77年8月25日に田園コロシアムで行われた鶴田VSマスカラスだった。
「おじいちゃんと小さい頃に観ていたプロレスのイメージとは全然違って、凄く爽やかに感じて“あれっ、プロレスってこんなのだっけ?”って。それですぐにプロレスにハマったわけじゃないんだけどね。その年の暮れのファンクスVSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークでハマっちゃった。今思えば一番嫌いな試合だよね(笑)。でも、要するにコテコテのほうが人を惹きつけやすいのかなっていうのは思うよね」
それから毎週、全日本の中継を観るようになり、続いて新日本の『ワールド・プロレスリング』も欠かさず視聴するようになった。ついには、中学3年生の時の78年秋に新日本の入門テストを受けた。なぜ新日本だったかというと、全日本にも履歴書を送ったが返事が来なかったからだ。
東京・世田谷区野毛の新日本道場で、スクワット500回、腕立て伏せ30回1セット×10セット、柔軟、首の運動、ブリッジなど基礎体力を難なくパスした川田は、現役の若手レスラーとのスパーリングに勝ってしまったから大変なことになった。続く藤原喜明とのスパーリングで容赦なくボコボコにされてしまったのだ。
藤原には血だらけにされてしまったが、テストは合格。事務所での山本小鉄との面接にもパスして数日後、新日本から「卒業したら来るように」という連絡が入った。この時点で川田が新日本に入っていたら、当時の新日本のレスラーの最年少記録。闘魂三銃士よりも5年も先輩になり、新日本の歴史……いや、日本プロレス界の歴史も大きく変わっていたかもしれない。