合宿所のスパーリングで鶴田に引きずり回される

その後、「高校だけは出てほしい」という母親、先生の説得でレスリングの強い足利工業大学附属高校に進学して、三沢と同じレスリング部に入部。3年生の時の81年6月の関東大会、8月の全国高校総体、10月の滋賀国体のフリースタイル75㎏級でいずれも優勝。滋賀国体ではのちの獣神サンダー・ライガーとも対戦して勝っている。

そして、卒業前に1年早く全日本に入門してすでにデビューしていた三沢に「自分もプロレスラーになりたいんですけど」と相談。82年2月4日の東京体育館で馬場の面接を受けて「高校を卒業したら来なさい」と入門の許可をもらったが、実は馬場に会う前にプロレスのイメージを変えてくれた鶴田に会っている。

「まだ東京体育館で馬場さんに会うよりも前に、三沢さんに“後楽園ホールに来い”って言われて、後楽園ホールの裏の階段のところに三沢さんが鶴田さんを連れてきてくれて1回挨拶したの。テレビで観ているイメージとそんなに変わらず、爽やかで軽いノリで“頑張ってね!”みたいな感じだったね」

当時、三沢は鶴田の付き人。川田もレスリング出身ということで鶴田に可愛がられたと思うが、そのあたりはどうだったのだろうか?

「同じアマレス出身っていうけど、バスケットボールをやってた人間が、たかが何か月かアマレスやったらオリンピック行っちゃったなんて、普通じゃ考えられないことだよ。自分がやっていただけに、なおさら考えられないよね。じゃあ、それまで頑張っていた人はどうなのって感じじゃん(苦笑)。

あの人は、なんに関してもずば抜けてたからね。三沢さんが付き人をやってたんで、たまに地方巡業で時間が空いた時に三沢さんと一緒に鶴田さんのタニマチにご馳走になってたよ。でも、合宿所ではシゴかれたこともありますよ。当時の全日本は最後にスパーリング、スパーリングで、相撲で言えば入ってきた新弟子が先輩たちに回されて可愛がられるようなものだよ。鶴田さんに“動け! 動け!”って引きずり回されて。何人もの先輩とやった後にそれだからね(苦笑)」

▲川田曰く「鶴田さんの強さはシングルで戦った人しかわからない」

その後、デビューを果たした川田は、長きにわたる前座戦線を経て、天龍革命、超世代軍に身を起き、鶴田と対峙していくこととなる。リング上の鶴田を川田はどのように感じたのか? そこはぜひ拙著『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』で確認してほしい。

今こそ“最強”ジャンボ鶴田を解き明かそう! 』は次回6/10()更新予定です、お楽しみに。


プロフィール
 
ジャンボ鶴田(鶴田友美)
1951年3月25日、山梨県東山梨郡牧丘町生まれ。
日川高等学校時代にはバスケットボール部で活躍し、インターハイに出場。69年4月に中央大学法学部政治学科に入学してレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級代表として出場。同年10月31日に全日本プロレスに入団した。73年3月24日にテキサス州アマリロでデビューし、ジャイアント馬場の後継者として躍進。インターナショナルのシングル、タッグ、UNヘビー級、日本人初のAWA世界ヘビー級、初代三冠ヘビー級、初代世界タッグ王者に君臨している。87年~92年には天龍源一郎、三沢光晴らの超世代軍と抗争を展開して一時代を築いた。92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退き、筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで教授レスラーに。99年3月6日に引退してオレゴン州のポートランド州立大学の客員教授に就任したが、2000年5月13日午後4時、フィリピン・マニラにおける肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショック(大量出血)により急逝。49歳の若さでこの世を去るも、“最強王者”としてプロレスファンの記憶の中で生き続けている。