テレビの攻勢と日本映画の躍進

戦後のハリウッドは赤狩り(レッドパージ)の影響により、多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。次いでテレビの攻勢に悩まされた。

▲戦後ハリウッドはテレビの攻勢に悩まされた イメージ:PIXTA

1950年代の日本では、3人の監督が国際的な評価を得て日本人を勇気づけた。小津安二郎(おづやすじろう)の『東京物語』(1953年/日本)は、尾道から上京した老夫婦と子どもたちの物語だが「ロー・ポジション」を多用し、カメラを固定して人物を撮ることが成功した。

幽玄な美を描いた『雨月物語』(1953年)の溝口健二(みぞぐちけんじ)監督は、ワンシーン・ワンカットの長回しを多用し細部に凝りに凝った。『羅生門』(1950年)や『七人の侍』(1954年)の黒澤明(くろさわあきら)は、複数のカメラを同時に回したり、アフレコを嫌って現場録音をしたりしてリアルな画面を創出した。

インドの映画が世界に知られるようになったきっかけは、映画が産業の中心のムンバイでなく、ベンガルのサタジット・レイ監督『大地のうた』(1955年/インド)である。著名な俳優を使わずに、たんたんとインド人の日常を描いた。

英語圏に目を移すと、キャロル・リード監督の『第三の男』(1949年/英国)は、アントン・カラスが奏でる民族楽器の響きが印象的なサスペンス映画。フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉(かな)、人生!』(1946年/アメリカ)は、アメリカ人の大好きなクリスマス映画。

ようやく戦後から復興した時代に、日本人の欧米への憧れをかき立てたのがウィリアム・ワイラー監督の、オードリ・ヘップバーンとグレゴリー・ペックが主演した『ローマの休日』(1953年)である。ロバート・マリガン監督でグレゴリー・ペック主演の『アラバマ物語』(1962年)は公民権運動の時代の傑作。

▲「ローマの休日」舞台のスペイン広場 イメージ:PIXTA

サスペンスものでヒット作を連発したのが、アルフレッド・ヒッチコック監督である。『裏窓』(1954年)や『めまい』(1958年)など高い水準も映画を量産した。イングリッド・バーグマンやグレース・ケリーなど金髪の美女が登場することが多い。

1960年ごろには、大きなスクリーンが増え、それを生かしテレビでは味わえないダイナミックな描写が追究された。ウィリアム・ワイラー監督の『ベン・ハー』(1959年)は、コンピュータ・グラフィック(CG)を多用した『タイタニック』(1997年)が出現するまで、最も多くのオスカーを獲得した作品だった。

大型のスクリーンにアラビアの砂漠の世界を描いたのが、デヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』(1962年)である。同じ監督の『ドクトル・ジバゴ』(1965年)はロシア革命の時代を背景にしている。

※本記事は、八幡和郎:著『365日でわかる世界史』(清談社Publico:刊)より一部を抜粋編集したものです。