アマリロでプロレスラーとしての掟を学んだふたり

さらに8月23日のアマリロでもタッグを組んだふたりは、コックス&ボリス・マレンコのベテラン・ヒールコンビと激突。9月11日のオデッサでは、テリー&鶴田&ハンセンの師弟トリオが実現して『マーダー・インコーポレーテッド』のネグロ&パトリオット&ドン・ファーゴとイリミネーションマッチで対戦している。

「俺とジャンボは経験を積まなければいけない時期だったからベビーフェースでもヒールでもなく、いろんなレスラーと戦っていた。だからジャンボと戦うこともあれば、俺とジャンボが組んでトップガイのファンクスと戦うこともあったし、あるいは6人タッグでテリー、俺、ジャンボが組んでトップヒールと戦うこともあったんだよ。当時のアマリロ・テリトリーのヒールはグッドワーカーが揃っていたから、ベビーフェースとして彼らと試合をするのは凄く勉強になった」<ハンセン>

ふたりが最後に組んだのは9月23日のアルバカーキ。この日、ソントン&ラリー・レーンと戦ったのが鶴田のアマリロ修行ラストマッチでもあった。当時はインターネットもなく、入ってくる海外の情報は限られていたが、全日本プロレスを全面バックアップする日本テレビは、“未来の全日本のスター”としてパブリシティするべく、鶴田のアマリロでの活躍をさまざまな方法を使って全日本中継の中で伝えた。

渡米から2か月後の5月19日の放送では『鶴田選手紹介第1報』として写真で紹介。5月26日の第2報ではドリー・ファンク・ジュニアとの対戦の模様も写真で紹介している。映像としては、アマリロのTVスタジオ特設リングで撮影されたザ・ビースト相手のデモンストレーションテープが7月7日に放送された。鶴田がビースト相手にダブルアーム、サイド、フロント、ジャーマンの4種類のスープレックスを披露し、それをスローで分解して、山田隆氏(東京スポーツ)が後付けで解説したものだ。1分29秒の短いフィルムだったが、インパクトは大きかった。

さらにロサンゼルス支局が8月6日のエルパソに出向いて現地取材するなど、日本テレビは10月の凱旋帰国までに“4種類のスープレックスを使う驚異の新人・鶴田友美”をファンに印象付けたのである。 

かくして、鶴田のアマリロ遠征は実り多き時間となった。一方、ハンセンはアマリロ時代の貴重な経験をこのように述懐した。

「グレートなプロフェッショナルのカール・フォン・スタイガー、ムース・モロウスキー、サイクロン・ネグロ、ゴードン・ネルソンから学ぶことができたのは、私にとってラッキーだった。彼らは試合の中で、観客の前で、私をしごきながらいろいろなことを教えてくれた。試合の中で“ああしろ、こうしろ”とたくさんアドバイスしてくれたが、それよりも肝心な“これだけは絶対にやるな!”ということも教えてくれて、それが非常に役に立った。それは暗黙のルール……つまり相手に怪我をさせてはいけないということを身体で教わった。鍛えられる箇所は思い切り殴る、蹴る。でも鍛えられない急所を攻めてはいけない。攻めてはいけない箇所を間違えてやってしまった時には容赦なく潰された。それによって、“ああ、あれはやっちゃいけないんだな”と覚えていったんだ」

鶴田はプロレスラーになってから中大同期の鎌田に「プロレスでは、間違ってやられた時は、試合中に必ずやり返すんだよ。舐められたら困るから」と言っていたというが、ハンセンと同じように先輩たちに揉まれながら“プロレスの掟”を学んだのである。その掟の中であれだけスケールの大きさを見せた鶴田は、やはりリング上では“最強”だったと言えるだろう。

今こそ“最強”ジャンボ鶴田を解き明かそう! 』は次回6/17()更新予定です、お楽しみに。


プロフィール
 
ジャンボ鶴田(鶴田友美)
1951年3月25日、山梨県東山梨郡牧丘町生まれ。
日川高等学校時代にはバスケットボール部で活躍し、インターハイに出場。69年4月に中央大学法学部政治学科に入学してレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級代表として出場。同年10月31日に全日本プロレスに入団した。73年3月24日にテキサス州アマリロでデビューし、ジャイアント馬場の後継者として躍進。インターナショナルのシングル、タッグ、UNヘビー級、日本人初のAWA世界ヘビー級、初代三冠ヘビー級、初代世界タッグ王者に君臨している。87年~92年には天龍源一郎、三沢光晴らの超世代軍と抗争を展開して一時代を築いた。92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退き、筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで教授レスラーに。99年3月6日に引退してオレゴン州のポートランド州立大学の客員教授に就任したが、2000年5月13日午後4時、フィリピン・マニラにおける肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショック(大量出血)により急逝。49歳の若さでこの世を去るも、“最強王者”としてプロレスファンの記憶の中で生き続けている。