「長い目で見られる」ことは現実逃避ではない

この挫折が転機となり一念発起し、ケガが癒えると大逆襲がはじまった――映画だったら、物語はそのように展開していくものです。しかし……、本当に申し訳ない。僕の人生は、そんなにドラマティックにはできてはいません。

2年生の秋、置いてけぼりを食らったことで、さらに冷静に自分を見つめることができました。

この同級生投手と、エースナンバーを巡ってのライバル関係にあったのなら別ですが、僕が休んでいる間に、たった1人で京都大会を投げ切った彼を素直に「すげぇなあ」と見ていましたし、そのまま近畿地区大会まで1人で投げて、3季連続甲子園出場となるセンバツ当確ラインを突破、そして優勝までしてしまったときには、もう観念するしかありませんでした。

「今の俺では無理や。とてもではないが、ここまでのことはできていない」

それでも内心では「本当は俺のほうが上だ、いまに見ていろ」と思っていたのではないかと思われるかもしれませんが、本当にそんなことはまったく思っていませんでした。

ここまで差がつくと、もう「負けていられない!」とも「クソーっ!」とも思いません。それよりも、自分を「情けないな」と感じました。大事なときにケガをしたのも情けないですし、それ以前の問題として、ピッチングができていないのが情けなかったです。

ここで「もう野球はやめよう」となる可能性も大いにありました。ただ僕は、すでにものごとを地味でも粘り強く考えるようになっていたのです。

冷静に自分の実力を考えたら、プロ入りなんて考えられませんでしたが、小学生のときに教えてもらった「野球の楽しさ」はそのときも忘れていません。

だから、僕は大学に進んでも野球をやり、そして社会人でも野球をやり、着実にステップを踏んで上達できたらいいなと思っていました。そのため、腰を痛めたときも、慌てず焦らずじっくりと治療に専念できたのです。

「高校では勝てないだろうが、大学に行ったらやってやる!」と、心の舵を切っていました。高校球児としては、もう残された時間は1年を切っていますが、大学まで視野に入れれば、それが4年以上も長くなる。焦る必要などなく、無理をせずに済みます。

よく「長い目で見てください」と言います。その言葉は外に向けて言うことが多いですが、自分に対してもかけるべき言葉なのではないかと思います。それは、決して現在の状況から目を背けて、現実から逃避することではありません。むしろ逆なのです。

▲「長い目で見られる」ことは現実逃避ではない イメージ:PIXTA

希望的観測にとらわれることなく、現実を冷徹なまでに見つめて、いま確実にできるベストなことを考える。そしてあとは、それを地味に地道にやり続け、まっとうする。その結果、現状を変えることができる。そして、そのためにどれぐらいの時間がかかるかを見定める。

なにげなく先ほどから言っている「地道な努力」というものを言葉にすれば、そういうことなのではないでしょうか。それによって状況を変えることはできますし、人生だって変えられると思うのです。