中学までは軟式で、高校時代は甲子園に出場したもののエースではない。大学時代は関西六大学野球が舞台で、プロ入り先は阪神タイガースの陰に隠れがちなパ・リーグのオリックスバッファローズ。決して目立つ存在ではなかったけれど、コツコツと努力を積み重ね、今ではド派手なMLBの舞台で奮闘するメジャーリーガーの平野佳寿投手が、自らの持ち味である「地味」の哲学について語ってくれました。

※本記事は、平野佳寿:著『地味を笑うな』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

夢だった“派手”な舞台で知らされた「現実」

高校2年生の時、はじめての甲子園で僕は晴れてベンチ入りメンバーに選ばれました。ですが、まったく登板の機会はなく、その気配すら感じられません。

地道な努力を重ねてきたチームは強くなっており、どんどん勝ち進み、準決勝へとコマを進めました。相手は強豪・東海大相模です。

しかし、そこまで連投が続いていたエースの疲労は限界に達していました。結果的にその大会で優勝した東海大相模の打線に序盤でつかまり、なんと僕に登板の機会が回ってきたのです。

いきなりやってきた僕にとっての実質的な公式戦デビュー。それが甲子園の準決勝という、とんでもない大舞台でした。

ここを目指して鳥羽高校に入ったわけで、ある意味、夢を叶えた瞬間ともいえます。ところが実際は、そういった感慨はほとんどありませんでした。鮮明に覚えているのは、甲子園のマウンドが不思議な感覚だったことだけ。

「なんや、これ?」

一言で表せば、わけが分からない状態でした。とにかく、わけの分からないまま投げていました。パカパカ打たれて、火だるまになったことは覚えています。

調子は良かったです。それでも気がつけば、3イニングで9失点。

▲夢だった“派手”な舞台で知らされた「現実」 イメージ:PIXTA

もう一つよく覚えているのは、自分がバッターボックスに立ったときのこと。まったく手も足も出ず三振に終わりました。

「こんなん、打てるわけないやろ!」と。

甲子園で準決勝まで勝ち進むピッチャーのレベルの高さが、身をもって知りました。僕とではレベルが違いすぎたのです。

好むと好まざるとにかかわらず、誰かが務めなければならないマウンドであり、誰かが進めなければならないイニング。

僕は実力以上のミラクルを起こすような「派手」なスターではなく、持っていたはずの力さえ発揮できない「地味」な存在だったのです。甲子園のマウンドで、改めてその現実を突きつけられました。