自分を理解できず「無理」をしてしまった

僕が降板したあと、同級生のピッチャーが登板し、3イニングをピシャリと0点で抑えました。その後は、彼が僕の世代の1番手のピッチャーとして、起用されていくことになります。

「このままじゃダメや……」

さすがに気合いが入りました。しかし気合いだけでは、どうにもならないこともあります。その夏の大会の前では、2番手投手として登板機会を与えられたのですが、結果を残せませんでした。

もっともっと、がんばらないとエースになれない――その思いが、どんどん強くなりました。それが「無理」になっていったのです。

自分の体力やコンディションを「理解」して、練習の強度を上げる分にはいいでしょう。けれども、その「理解」が「無」であるハードワークを「無理」というのです。

プロ野球では、高卒ルーキーにも無理はさせません。ましてや高校2年生では体ができていません。すでに身長は180センチぐらいありましたが、体重は65キロぐらい。そもそも太りにくいタイプで、おそらく監督はギリギリのラインを見定めながら鍛えてくれていたのだろうと思います。

しかし、僕はそのラインを分かっていませんでした。ただひたすら投げて、投げて、投げました。それによって投球する力はついたでしょうが、発展途上の肉体の限界を超えてしまっていたのです。

▲自分を理解できず「無理」をしてしまった イメージ:PIXTA

当時の僕は、そんなことも分からずにひたすら無理をして、体が悲鳴をあげていることにも気づかず、ついには腰がパンクしてしまったのです。完全にオーバーワークでした。

僕は一気に急浮上しようとしていました。地道にコツコツではなく、突き抜けたいという願望で突っ走っていたのです。自分の限界を超える、派手なことを続けていても、自分を傷めるだけ。僕は、高校生のうちにそれを知ることができました。そういう意味では、このケガはいい経験でしたね。

腰を痛めた僕は、夏の大会に出場するどころか、長期にわたって戦線を離脱することになります。夏は1試合も投げられなかったですし、秋に新チームを作る段階になっても、僕はベンチ入りすらできませんでした。

2年と少ししかない高校球児の稼働時間を考えれば、この空白期間は長い。立ち直れないほどの挫折になっていてもおかしくありませんでした。

その間も同級生のエース投手は、着々と結果を残していました。夏の京都大会を制し、甲子園出場。チームを2季連続で甲子園に導いたのです。僕は完全に置いてけぼりを食らっていました。