「鎖国が終了して、日本は欧米に対して開国をした」と歴史の教科書では習いますが、列強が狙っていたのは、アジアに植民地を増やすことでした。在外歴約40年の元外交官・馬渕睦夫氏が、幕末の日本がどうやって生き抜いたかを紹介します。

※本記事は、馬渕睦夫著『国際ニュースの読み方 コロナ危機後の「未来」がわかる!』(マガジンハウス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

黒船来航は国際金融資本家たちの指示

日本とアメリカのそもそもの関係――「国交開始のきっかけ」というと、まず思い浮かべるのは「黒船来航」でしょう。1853年(嘉永6年)に、マシュー・ペリー提督率いる米国海軍東インド艦隊の蒸気船隻を含む艦船隻が来航して、いまの神奈川県の浦賀に停泊しました。

教科書的には、捕鯨船に必要な物資の補給地を求めての来港と言われていますが、裏の目的は別にありました。

ペリーを動かした人物の一人が、オーガスト・ベルモントというロスチャイルド財閥の米国における代理人です。このベルモントの義理の父親がペリーなのです(ペリーの娘キャロラインと結婚)。そうしますと、ペリー来航は「日本市場を開放させよう」という、国際金融資本家たちの意図にもとづいたものであることが窺えます。

▲マシュー・ペリー 出典:ウィキメディア・コモンズ

日米和親条約が結ばれたのは翌年のことです。「鎖国が終了して、日本は欧米に対して開国をした」と歴史の教科書では習います。日米和親条約では、下田と函館を開港しました。

1858年(安政5年)に、日本はアメリカと日米修好通商条約を結びます。神奈川・長崎・新潟の港が開港されることになり、当時の日本経済の中心地、江戸や大坂でアメリカは商取引ができることになりました。

関税自主権の放棄や治外法権といった、いわゆる「不平等条約」の問題はありましたが、とにかく日本はアメリカと貿易を行うことにしました。表向きには、これをもって「日本は開国した」と言われています。

しかし、それだけを見ていては、国際情勢を掴むことはできません。開国というのは、欧米先進国の立場から言えば「他国を植民地にして、自分たちの市場にする」という意味です。こういう視点で考えることが大切です。 

中国を補助線にしてみましょう。1840年にアヘン戦争がはじまりました。当時の王朝・清とイギリスとの戦争です。

イギリスが勝って、それ以降、ヨーロッパの列強が中国になだれ込みました。治外法権の承認や関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借地の設置といった不平等条約を次々に結ばされた結果、中国の半植民地化が進みました。

日本の開国と同じ状況です。アメリカやヨーロッパの列強は、日本を植民地にするか、あるいは当時の中国と同じように、実質的な保護国に置こうとしたのです。

「幕末は、日本が列強から狙われた時代だった」と言うことができるわけです。