明治日本と清国との関係の核心は「朝鮮半島」

ここで、明治維新後の日本と中国(清)の関係を整理しておきましょう。日中関係は、つねに日米関係の反映でもある。その視点から、日中関係を見ていくことが肝要です。

まず、1894年の日清戦争はなぜ起こったか。「朝鮮の支配権をめぐる日清両国の戦争」と歴史教科書では習いますが「なぜ朝鮮の支配権を争ったのか」というところを見なければいけません。

清とイギリスが戦ったアヘン戦争についてはご存知だと思います。 

明治の指導者たちは、こう考えました。「日本一国では、欧米の強大な力には、とてもではないけれど、対抗できない。欧米に同じような目にあっている、朝鮮や清を目覚めさせる必要がある」と。

つまり、日本が独立国としてやっていくために「朝鮮ならびに清にも近代化してもらおう」と考えたわけです。

そして、当時の清と日本の関係を考えるうえでは、朝鮮半島の情勢を見ることが欠かせません。帝国主義で世界進出を目論む列強のひとつ、ロシア帝国は、南下政策を進めていました。

ロシアの南下で朝鮮半島が不安定化していきます。日本としては、朝鮮半島が安定しないと、国の安全が保てません。ロシアの脅威が目前に迫るからです。朝鮮の近代化を進めて、朝鮮を独立させたいと考えていました。 

西郷隆盛などが唱えていた征韓論は「欧米の植民地にならないために、朝鮮は独立しなければならない。その独立を日本は支援する」という考え方が元になっています。

「当時の明治政府は、征韓論をめぐって対立した」と、歴史の授業で習います。「日本はかねてから日朝修好を求めていたが、朝鮮政府は鎖国政策をとり続けて交渉を拒絶し続けていた。出兵して占領すべきだという論と、やはり交渉で解決すべきだという穏健派とで対立していました」と。

▲西郷隆盛 出典:ウィキメディア・コモンズ

しかし、征韓論は、朝鮮を征伐しようというものではなく、朝鮮を独立させようとするものでした。ところが、朝鮮はそれにまったく応じようとしません。

清王朝は朝鮮を自分の属国だと考えていましたし、朝鮮の側も清王朝こそ宗主国、つまり従うべき上位の国と考えていたからです。朝鮮は、伝統的に宗主国・中国の下につく「小中華」ですから、独立などということは考えたこともありません。清国と朝鮮の関係に日本が入り込んでくるのはけしからん、ということばかりを主張しました。

明治も令和も変わらない中国との「つき合いかた」

先にお話ししたように、明治政府は、日本と清と朝鮮がともに近代化して列強の帝国主義に対抗すべきだと考えていました。ところが、朝鮮も清も、自国の近代化も文明開化もまったく考えていないという状態だったのです。

中国の「中華思想」は、自らが世界の中心に位置する唯一の文明であるとみなしていたので、欧米列強も中国の下にあるとみていたのです。だから、彼らが何かを学ぶという姿勢になかなかならなかったわけです。

特に、日本に対しては、清は日本に文明を教えた兄貴分であるという度し難い優越感と、弟分であるはずの日本に国家発展の先を越されてしまったという癒やし難い劣等感で、自縄自縛に陥っていました。

ちなみに、小中華主義の朝鮮も日本を弟分とみなしていましたので、清と同様の感情を持っていました。このようなアンビバレントな感情が、以降の日清関係を決することになることに注意しておく必要があります。

この中国(清から中華民国を経て、現在の中華人民共和国に至るまで)の複雑な対日感情に、日本は翻弄されることになるのです。

「脱亜論」という言葉も聞いたことがあると思います。日清戦争の10年ほど前に、福沢諭吉が『時事新報』という新聞に発表した社説ですね。

朝鮮も清国も近代化のそぶりを見せません。植民地化されようとしている自国の状況に、まったく気がついていないように見えました。朝鮮に至っては、宗主国の清になびいたと思えばロシアと組んだりして、日本の妨害ばかりをする始末です。

自国の将来を考えない隣人とはつき合いきれない、というのが「脱亜論」の趣旨でした。

日本は中国から多くを学んで日本の文化を豊かにしてきましたが、韓国のように中国をマネすることはありませんでした。それゆえ、日本は近代化できたのです。

先ほどお話ししたように、中国は日本に対する優越感と劣等感によって苛まれ、深く病むようになっています。日本にとっての教訓は、中国をマネないこと(中国にのめりこまないこと)。端的に言えば、“敬遠”です。

過去の中国文明から学んで豊かになった経験から、中国に敬意をはらうのはいいのですが、決してマネはしない(近づきすぎない)。すなわち、遠ざけるということなのです。