事実無根の冤罪「医師団陰謀事件」
ミトロヒンが諜報員として働き始めてから最初の数年間は、スターリンの最晩年で悪名高い偏執性と猜疑心がピークに達していた時期です。スターリンは1953年3月5日に亡くなりますが、その直前の2カ月間、KGBは「医師団陰謀事件」の摘発に駆り出されました。
医師団陰謀事件というのは、国際的ユダヤ人組織とアメリカの情報機関が、ユダヤ人医師のテロリスト集団を使って、ソ連政府の要人を暗殺しようとしているという事実無根の冤罪事件で、要人御用達のクレムリン病院に勤務する、高名なユダヤ人医師たちが何人も逮捕されました。
スターリンは、ユダヤ人を弾圧するために陰謀をでっちあげていたわけではなく、ユダヤの国際組織が、自分たちを滅ぼそうとしていると本気で恐れて怯えていたのです。
「ロシア革命を成功させたのは、ユダヤの国際金融資本」で「コミンテルンもユダヤの手先だ」という人もいますが、本当に色々なものの見方や考え方があるものだなあと思います。
スターリンが亡くなると、KGB議長ラヴレンチ・ベリヤは、一転して、陰謀は存在しなかったと発表します。しかしそのベリヤも6月に逮捕され「イギリスおよび西側諸国と手を組んで、資本主義の復活とブルジョワジー支配の回復を企んだ」という罪で、12月に処刑されます。
当時、ソ連の指導者たちがベリヤの陰謀を本気で信じていたのかどうかは、かなり怪しいですが、普段から陰謀論に陥りがちな人たちであったことは事実です。
反革命の陰謀に対するソ連の警戒心は、スターリンの病的な猜疑心だけが原因ではなく、共産主義に組み込まれているものだとアンドルーは言っています。「自分たちはいつも西側から陰謀を仕掛けられている」という確信は、なにもスターリンに始まったわけではありません。レーニンの時代からずっとそうなのです。
だからこそソ連という国は、自国への国際的な陰謀が存在することを前提にして、対外工作で常に謀略を仕掛けてきました。自分の側が謀略をすればするほど、相手も自分にやっているに違いないと、さらに確信が強まっていく構図です。それが結果的に、自滅と大量粛清につながっていくことになります。
ミトロヒンの任務は、1956年までは現場で作戦に携わる諜報員でした。1954年に秘密工作のため中東に派遣され、1956年10月にはメルボルン・オリンピックで、ソ連チームに随行しています。オリンピックは、堂々と外国に秘密諜報員やスパイを送り込むことができる絶好の機会なのです。
ミトロヒンは、中東で自分が携わった工作について、ほとんど何も語っていません。
KGBを批判したミトロヒンは作戦から外された
ベリヤの逮捕と銃殺後、スターリン政権下で抑圧された人々が再審理を求める動きが高まり、1953年から1955年頃にかけて、冤罪で逮捕されていた人々や、刑期を終えても拘束され続けていた人たちが釈放され始めました。
そして、1930年代の「大テロル」(大粛清)で犠牲になった人たちの名誉回復を求める声も強まっていきます。
こうした中で、スターリン死後の後継者争いに勝って第一書記の座についたフルシチョフは、1956年2月に有名な「秘密報告」を行います。
外国の共産党代表を入れない秘密会の席上で「スターリンが個人崇拝を強めたことや、冤罪で無実の人々を粛清したことは間違いだった」と批判したのです。いわゆるスターリン批判です。
フルシチョフは秘密報告の内容を、各地の共産党組織を通じて全国に広めていきました。同時に、冤罪で投獄されていた人たちの釈放や「大テロル」で処刑された人々の名誉回復が行われ、検閲も少し緩められます。
つまり「スターリン批判」によって、ほんの少しですがソ連でも言論の自由が許され「雪解け」が起きたのです。
共産主義体制をやめて根本から改革するという話ではなく、共産主義体制の下で、一党独裁体制の枠内で、ある程度の自由を認めようということです。
スターリン時代のような、法に基づかない徹底的弾圧はやめて「社会主義的適法性を守ろう」。つまり、冤罪で処刑しまくるようなことはもうやめよう、という話です。これを「脱スターリン化」と言います。
そうした風潮の中、ミトロヒンはKGBの運営について批判的なことを口にしました。具体的にどんなことを言ったのか書いてありませんでしたが、アンドルーによれば、西側の基準に照らせば穏健な批判だったそうです。
しかしミトロヒンは作戦から外され、第一総局の文書管理を担当するポストに回されます。モスクワ以外で勤務している第一総局の職員や、KGBの他の部門からの問い合わせに答えることが、ミトロヒンの主な仕事になりました。
ミトロヒンは仕事上、KGBの書類を大量に読むことになり、そうすることで徐々に、ソ連の全体主義体制への絶望を深めていきます。