切手を舐めて貼ったことを後悔したミトロヒン
ソ連当局は1958年、ノーベル文学賞受賞者に選ばれたB・パステルナークに圧力をかけて、受賞を辞退させました。
ミトロヒンは「何が脱スターリン化だ、結局は共産党が文学と芸術を支配しようとしているじゃないか、表現の自由が認められていないじゃないか」と怒るあまり『リテラトゥルナヤ・ガゼタ』誌に匿名で抗議文を送っています。そのとき、切手を舐めて貼ったので、唾液から身元が分かってしまうのではないかと、あとで心配になったと言っています。
もし身元がバレていたら、自分だけではなく家族も大変なことになります。当局に唾液の情報を握られるかもしれないようなことをしたのは、痛恨の失敗というところです。
噂で聞いた話ですが、2019年6月にトランプ大統領が38度線上で金正恩と握手したとき、金正恩のDNA情報を確保したそうです。DNA情報をつかめば金正恩の健康状態が分析できるし、本物と影武者の区別もできます。
金正恩死亡説が流れたとき、トランプ大統領が「違う」と言った背景には、このDNA情報があったのだとか。国際政治の世界では、迂闊に握手もできないのです。
ミトロヒンの切手の場合は、当時のことですからDNA分析ができたわけではありませんが、唾液のような分泌物が身元特定につながることを、情報機関員であるミトロヒンは当然よく知っていたことでしょう。
フルシチョフの秘密報告が、KGB内の共産党組織に伝えられたとき、ミトロヒンは「スターリンの犯罪と言うけれど、そのときフルシチョフはどこにいたんだよ」と全員が心の中で思っていたに違いないけれど、誰も口に出さなかった、と述べています。
そういう冷めた見方をしていたミトロヒンも、勢い余って切手を舐めてしまうくらい、パステルナークの件に強く怒っていたのだろうと思います。
ミトロヒンは、まだこの頃は共産主義体制の転覆を望んでいたわけではなく、せめて裁判くらいはまともにやって、少しは自由が認められる社会になってほしいと望んでいました。フルシチョフの秘密報告に冷めた見方をしながらも、ここまで怒ったのは期待の裏返しでもあったのではないでしょうか。
人は弱いので、淡い希望にでもすがりたいものです。いつかは少しはよくなるという希望がなければ、人は生きていけません。
フルシチョフが失脚後、スターリン時代に逆戻り
1964年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフが第一書記の座に就きます。ブレジネフ政権の最初のうちは、自由な雰囲気が少し残っていて、スターリン時代には認められなかったような小説や雑誌が刊行されましたが、ブレジネフは「脱スターリン化」とは反対に「スターリン復権」を進め、締め付けを強めていきます。
そして、ブレジネフの下で1967年にKGB議長に就任したのが、その後15年間という歴代最長任期を務めることになるアンドロポフでした。
アンドロポフは、ソ連の衛星国で共産党の一党支配が危うくなるたびに、一貫して強硬策をとり、軍事力による徹底的な抑え込みを行いましたが、それには理由があります。
アンドロポフは、1956年のハンガリー動乱のときにブダペスト駐在大使だったので、ハンガリーの秘密警察幹部らが国民に憎まれ、街灯に吊るされる光景を目の当たりにしました。一見すると盤石に思えた一党独裁体制が、あっという間に倒されそうになったハンガリー動乱の記憶が、一生頭から離れなかったのです。
少しでも民主化を認めれば、民衆を抑え切れなくなって、真っ先に殺されるのは自分たち秘密警察だ、と。アンドルーは、これをアンドロポフの「ハンガリー・コンプレックス」と呼んでいます。
アンドロポフは、その後、チェコスロヴァキアでも、アフガニスタンでも、ポーランドでも、共産主義体制が危機に陥ると、軍事力だけが自らの生存を保証できると信じて、強硬手段を使い続けたのです。