世界的ダンサーの脚を奪おうとしたソ連指導者
東ドイツからソ連に戻ったあとも、ミトロヒンは西側放送を密かに聞き続けました。また、ソ連での人権擁護がテーマの雑誌『時事クロニクル』を熱心に読んでいました。
ソ連や東欧諸国の共産主義体制下では検閲が厳しいために、サミズダートと呼ばれる独特の地下出版が存在しました。有名なものでは、A・ソルジェニーツィン:著『収容所群島』もサミズダートとして流通していました。『時事クロニクル』は、サミズダートの中で最も長期間発行された雑誌です。
ミトロヒンは、KGBの部外秘の機関誌や第一総局の文書を日常的に読んでいました。読めば読むほど、ソ連の体制への絶望が深まっていきました。
文書を読むと、アンドロポフ議長が、あらゆる反対派を殲滅するという個人的執念を抱いていることや、人権擁護の要求はすべてソ連の国家体制を揺るがすための帝国主義者の陰謀だと思い込んでいることが分かりました。KGBがソ連の司法制度を歪め、まともな裁判抜きで人々を抑圧している証拠も、KGB文書の中に山ほどありました。
1968年、アンドロポフはKGB議長指令0051号を発し、敵の思想的破壊工作と徹底的に戦うことを命じました。
その一環として、亡命した世界的なバレエダンサーであるルドルフ・ヌレエフが、二度と踊れなくなるよう脚を傷つける計画があることを知り、ミトロヒンはキーロフ・バレエの大ファンとして個人的にも強い怒りを覚えました。キーロフ・バレエは、ソ連が世界に誇る最高に美しい芸術なのに、ソ連の指導者たちに芸術を守ろうという想いは微塵もないのです。ひたすら残忍で野蛮なだけです。
少しは文化や芸術が尊重され、多少の言論の自由が許されること。法に基づく客観的な裁判が保証され、法に基づかない虐殺がなくなること。ミトロヒンが抱いていたこうした望みは、西側の自由主義国から見ればささやかなものです。
ですが、KGB文書を読めば読むほど、こんなささやかな希望がソ連では叶うはずがないことが、ますます見えてきてしまいます。
ミトロヒンは、反体制運動に公然と身を投じるつもりはありませんでした。その代わり、自分なりの密かな戦いとして、KGBの海外工作の記録を作成しようと考えるようになります。
妻にも言わずに持ち出し続けた機密文書のメモ
1972年6月、絶好のチャンスが訪れます。
ミトロヒンが所属するKGB第一総局が、モスクワのルビャンカにあるKGB本部から、郊外のヤセネヴォに移転することになり、ミトロヒンは、約30万冊ある第一総局の文書ファイルをチェックして梱包する責任者になったのです。
ミトロヒンは、日替わりでルビャンカとヤセネヴォの両方のオフィスに通い、文書の梱包・送り出しと、受け取り・開封・収蔵作業に携わりました。
文書ファイルの整理や索引作成の作業を監督する傍ら、ミトロヒンは二つのオフィスで読みたいファイルを読むことができました。
第一総局の機密文書を読む権限があるのは、ごく少数の幹部に限られており、権限がない者は、特別に申請して許可を得る必要がありました。読む権限がある幹部たちは、他の職務に追われているので、必要な部分以外に目を通す時間などありません。
時間のあるなし以前に、必要な部分以外を見ることは、権限がある幹部にとっても、命知らずの危険な行為です。じっくりと時間をかけて多量の文書を読んだKGB職員は、ミトロヒンが唯一と言っていいくらい、稀有な存在なのです。
ミトロヒンは、密かに機密文書の内容を紙にメモして写し取りました。最初のうちは用心して、昼間に職場で記憶し、帰宅してからメモを作りましたが、これでは捗りません。そこで次に、小さい紙片に書いてはゴミ箱に放り込んでおき、帰宅するときに拾い出して靴の中に隠しました。
尾行監視はされていたし、出入りするときに鞄の中を調べられることはありましたが、身体検査はされないことが分かってきたので、普通のオフィス用箋にメモを書き、上着やズボンのポケットに入れて持ち出すようになりました。
ミトロヒンが特に疑われていたわけではなく、防諜のためのルーティンとして、尾行監視が行われていたのでしょうが、常に見張られていることに変わりはありません。12年間ほぼ毎日、命がけのリスクを冒し、緊張にさらされ続けた生活は、想像を絶するものがあります。
見つかったら即座に秘密裁判で死刑判決を受け、後頭部に一発撃ち込まれて処刑されるのは確実です。自分だけでなく、妻も子供も親類も「人民の敵」扱いされ、どんなに残酷な目に遭わされるかわかりません。
しかも、これほどの危険を冒しながら、ミトロヒンが得られるものは何もないのです。
ミトロヒンは、1972年にメモを作り始めてから、1984年に退職するまでの12年間はもちろんのこと、退職後もずっと、誰にも、妻にさえも、ミトロヒン文書のことを明かしませんでした。
誰にも知られることなく、KGBがロシア革命以来やってきたことの記録を残しておく。本当にただそれだけが目的でした。