悲しみに包まれたニューヨークでのBLM運動

その1ヶ月後、私はニューヨークの自宅で呼吸困難に苦しんでいた。

出張から帰国後、3月上旬にウイルスがニューヨークにも上陸。3月中旬には感染が爆発的に増え、非常事態宣言が発令。外にも出られなくなり、気づいたら高熱を出し、嗅覚が無くなり、家族全員が体調を崩して倒れた。我が家は早速、新型コロナウイルスに感染してしまったのだ〔このあたりの経緯は別途文章にさせていただいたものがあるので、そちらを参照されたい〕

新型コロナウイルスによる体調不良に苦しむなか、ニューヨークの街は日に日に深刻な状況に陥っていた。いつの日からか、毎晩19時から、医療従事者やエッセンシャルワーカーに感謝して街中で拍手喝采をする習慣が始まった。

財力がある人たちは、どんどんニューヨークから避難していた。ここでも、その力がない人たちが「置き去り」にされた。医療施設はパンクしていた。私自身も、医師から、無理して病院に行き、ケアを受けられないよりも、自宅でどうにか療養することを勧められた。1ヶ月前に東京のサウナ室でぼんやり危惧した以上の事態が起こっていた。

4月、体調が戻り、嗅覚も戻って、緊張感のある社会状況をバカにしたようなうららかな春の日に、1ヶ月ぶりに家の外に出た。そこは、人も車もまばらな、置き去りにされたニューヨークだった。

公園などの屋外を歩くことは禁じられていなかったので、セントラル・パークを自転車で一周してみることにした。途中、感染者を緊急収容するためのテントが広場に立ち並んでいた。遺体を収容するためのトレーラーも目にした。街から、ミュージカルも、ジャズも、美術館も、すべてなくなってしまっていた。

こんなにも悲しみに包まれたニューヨークは経験したことがなかった。

本来なら自分たちを守ってくれるべき大統領が、新型コロナウイルスのことを「チャイナ・ウイルス」と呼び、私たち東洋人への差別が目立つようになってきた。私も街で「あなた中国人?」なんて、顔をしかめながら聞かれたりもした。

5月になった。少しずつ気候が暖かくなるとともに、人々も外を出歩くようになった。私も子どもたちを公園に連れて行って遊んだりするようになった。ある週末、子どもたちと公園で遊んで、帰りに近所でフローズンヨーグルトでも買っていくかと大通りに向かった。すると、ヘリコプターが頭上でホバリングしていてうるさいことに気づいた。

「何かあったのかな?」と思ったらすぐに、人の波が大通りを埋め尽くしてこちらに迫ってきた。2月以降、こんなにも多くの人を街で見たことがなかった。

数日前に起きた、警官によるジョージ・フロイド殺害事件を引き金としたBLACK LIVES MATTERの抗議運動だった。最初、彼らがなんて叫んでいるのか聞き取れなかった。一緒にいた現地の学校に通う中学生の息子が「Black Lives Matterって言ってるんだよ」と教えてくれた。

▲悲しみに包まれたニューヨークでのBLM運動

入ろうとしたフローズンヨーグルト屋の店員さん(アフリカン)が、仕事そっちのけで店の外に出てきて、デモ行進に喝采を浴びせる。歩いている人たちだけではなく、自転車に乗って大群で高スピードで進む人たちもいた。街中の人々が南(街の中心部)に向かうデモ隊を応援していた。

例によって、事態がどんどん進行するのがこの国であり、この街だ。報道の通り、デモは日を追うごとに激化し、数日後には夜間外出禁止令が出てしまった。ニューヨークで一緒に仕事をしている人とも連絡が取れなくなった。

あとで聞いてみると、仕事せずにデモに参加していたらしい。そんな人も周りにたくさんいた。少なくともニューヨークでは、BLMを支持する人は多かった。しかし一方で、中心部の高級品を扱う店舗などは襲撃され、破壊された。

ニューヨークを出る財力も余裕もない人たちが置き去りにされた街、もとより治安の悪化は明らかで、友人が経営する店舗が壊されたりという話も聞いた。非常事態宣言以降で鬱積したストレスが、BLMをきっかけにして爆発していた。

その真っ只中、ミッドタウンにある日本領事館に行く用事があり、渦中のニューヨーク中心部に行く機会があった。ほとんどのお店はベニヤ板で保護されて、静まり返っていた。入口を塞がれてお店ではなくなってしまったお店たちが、墓石のように静かに街に並んでいた。「歴史的な光景って、こんな光景のことをいうのだな」なんて思った。

▲静まり返っていたニューヨークの中心部

混乱に振り回される子どもたち

一方で、子どもたちの学校は、3月初旬以降、年度末となる6月末まで完全にリモートラーニングに移行、新しい学年が始まる9月に再開するかどうかもわからない、という状況だった。

公立学校のリモートラーニング対応はとても速かった。もともと授業では、オンラインで宿題を管理したりできるGoogle Classroomが活用されていたのもあり、それをそのままリモートラーニングに活用することで、迅速なリモート移行が行われた。

そこからの展開もアメリカらしく、良くも悪くも速かった。最初はオンライン授業にはzoomが活用されていた。zoomの使い方がわからない親や生徒もたくさんおり、混乱しながらもどうにか対応しようとみんな頑張っていた。

ところが数日後に、zoomのセキュリティ脆弱性がニュースになると、学校側もすぐに対応してオンライン授業を一斉にGoogle Meetsに切り替え、生徒も親も朝令暮改に振り回されることになった。

結果として、そもそもネット環境が弱い、もしくは無い家庭や、ITに強くない家庭の生徒が置き去りにされる。アメリカは、良くも悪くもいつもこれで、物事の進行が速い代わりに、ついて来れない人たちがついてくるのを待つ、ということがあまりない。そしてそこに生まれた格差がまた、じわじわと膿を生んでいく。

▲混乱に振り回されるのは子どもたちだ

6月末、子どもたちの学校が終わり、9月に再開するまで家族で日本に帰国することにした。再感染のリスクにしても、日本にいたほうが圧倒的にリスクは低い。

検疫の様子(驚いたことに、過去の感染のことを尋ねられもしなかった)、成田空港の様子、帰国後2週間の隔離期間の生活から何から、いろいろ書けることもあるが、本稿はニューヨークでの生活についての記事なので、またの機会にさせていただく。

8月末、9月から子どもたちの学校が再開する、しかも完全リモートではなく、クラスを半分にして部分的に学校に通えるようになる、ということでニューヨークに戻ってきた。

2ヶ月ぶりのニューヨークは、すっかり外に出る人も増えて、19時からの拍手・喝采タイムもいつのまにかなくなっていた。そして、9月から始まるといっていた学校が、教師の反対などがあって、なかなか始まらない。グダグダな感じになりながらも、10月にもなろうかというタイミングでようやく学校が再開。

そして、その頃には、すべての注目は一つの事に集まっていた。言わずもがな、大統領選挙だ。