情報やデータより個人的な体験を軸に書く

「これ、いる?」
いつものように、S本のお兄ちゃんの部屋に遊びに行った時のこと。お兄ちゃんが、見るからに古そうなボロボロのトランジスタ・ラジオを差し出したのです。試しに電源を入れてみたら「ガー」「ピー」と音がして、チューニングを合わせると、どこかのラジオ局につながりました。
「いる! いる!」
瞬間的にそう答えていたのは当然で、以来そのラジオは、僕の日常に欠かせない宝物となりました。新品のラジカセのようにいい音はしないし、録音もできないけれど、とりあえず音楽を聴くことはできるようになったからです。だからその日以来、夜になるとベッドにもぐり込み、スピーカーに耳を密着させ、あるいは質の悪いイヤホンを片耳に差し、ラジオの世界に入り込みました。
(
64〜65ページより)

こんな感じです。

これは、音楽を聴く手段を得た小学校高学年のころのエピソード。この体験が僕の人生に大きな影響を与えてくれたので、ここでは、そのラジオのおかげで知ることができたスティーヴィー・ワンダーのことを書いています。

音楽についての文章って、そういうものであるべきだと、少なくとも僕個人は考えているんですよね。

過去には、情報やデータを中心にした原稿を書くこともありました。けれど、それは本意ではなかったので、やがて“自分”を大切にするようになっていったのです。

もともと僕は、知識をひけらかすようなマニアックなアプローチがあまり好きではなく、その音楽をよく知らない人たちに「こういうのがあるから、聴いてみたら?」と提案するようなスタイルを貫いてきました。もちろん専門的な文章を求めている人もいるとは思うのですが、少なくとも自分には向いていないという気持ちが大きかったからです。
(「はじめに」より)

つまり、こういうこと。それが自分にできることであり、自分がすべきことでもあると考えているというわけ。

先ごろ、その連載を大幅に加筆修正し、書き下ろし原稿も加えた書籍が発売されました。『音楽の記憶 僕をつくったポップ・ミュージックの話』(自由国民社)がそれ。

ここ数年はビジネス書を書いているので、音楽関係の本を出すのはひさしぶり。でも上記のような理由から、この連載は書籍にしたかったのです。

そこで今回は次のことばを「人生を変える一文。」としてご紹介したいと思います。自分の文章のことを「人生を変える」とか書くのはたいへん気が引けますが、それはこの連載のフォーマットなのでご勘弁を。

そのアーティストのどこに引かれ、その曲を聴いたときなにを感じ、そこからどのような影響を受けるようになったか、その音楽から、どれだけ勇気づけられたかなど、自分にしかない経験を主軸とすることで、「よさそうだから、聴いてみようかな」と思ってもらえるような文章を書きたいと考えているのです。
(「はじめに」ページより)

なお、これは書評を通じて本を紹介する際にも意識していることです。別な表現を用いるならば、僕はどんなときにも上からではなく、同じ目線で“紹介”するスタンスでいたいのです。

上から語れるほど大層な人間ではないし、そんなことに価値があるとも思ってはいないので。

てなわけで、僕のバカ話に耳を傾けるような感じで、気楽に読んでいただければ本望です。

あ、それからもうひとつ。表紙のイラストは、もう35年くらいのおつきあいになる漫画家/イラストレーターの江口寿史先生によるもので、僕をモデルにしてくださったそうです。

ポーズをつけたわけでもないのに、なで肩の体型まで再現されているので、さすがだなぁと感動したものです。江口先生といえば、かわいい女の子のイラストで有名ですが、こういう作品もいいですよね。