“良い宿がいっぱい”――意味わかりますか?

『ふだん使いの言語学:「ことばの基礎力」を鍛えるヒント』(川添愛:著/新潮選書)に興味を持ったのも、つまりは自分に足りない知識を身につけたいという思いがあったから。

そもそも、言語学がなんであるかなんて、まったく知らなかったしな。

さらにいえば、著者が自身について「便宜上『言語学者』という肩書を名乗ってはいるが、まともな言語学者のキャリアパスからはドロップアウトした人間であり、現在は言語学で飯を食っているわけではない」としている点にも、少なからず共感したのでした。

それはともかく、言語学とはどんなものなのでしょうか? 著者は、どんなことを学んできたのでしょうか?

私が学んできたのは、自分の母語である現代日本語を対象とする言語学である。そしてそれは、「正しい日本語を研究する」というのとは異なる。言語学の内部での分類で言えば、私の分野は「理論言語学」というものにあたる。
理論言語学は原則として「自然現象としての言葉」を対象とする。(中略)
言語は基本的に自然現象である。つまり人間の言語は、誰か偉い人が「人間はみな、こんなふうに話して、こんなふうに言葉を理解しなければならない」と取り決めたものではなく、どういう経緯かは分からないものの、大昔に自然発生し、それが変化を繰り返してたまたま今のような形になったものだ。
理論言語学の目的は、そういう「自然現象としての言語の仕組み」を明らかにすることだ。(「まえがき」より)

これは「言語学とはなんなのか」ということを、おおざっぱに把握するには適した文章だと感じました。

一例として、本書で紹介されている言語学に関する問題をピックアップしてみましょう。

【問題】
カフェで、友人同士のAさんとBさんが話している。AさんがBさんに、最近行った海外旅行の話をしている。

Aさん「で、バリ島着いたら、もう、良い宿がいっぱいでさ〜」
Bさん「へー。やっぱり観光客が多いところって、そうなんだね」
Aさん「そうそう。それで、困っちゃってさ〜」
Bさん「うん、分かるよ。選択肢が多いと、逆に迷うよね〜」
Aさん「えっ? 選択肢が多いって、どういうこと?」
Bさん「え? 私、何か変なこと言ったっけ?」
Aさん「うん。私、宿の選択肢がなかったって言ってるんだけど」
Bさん「???」
(17〜18ページより)

つまり、Aさんは「良い宿が埋まっていて空きがなかった」ということを伝えたかったのに、Bさんは「良い宿がいっぱいあって選ぶのが大変だった」という意味だと誤解してしまったということ。

「良い宿がいっぱい」の曖昧さが原因であるわけですが、これは日常的に起こりうる誤解であるはず。

本書ではそうしたことがらを、多くの事例を交えてわかりやすく解説しているのです。だからこそ、僕のような“言語学素人”でも無理なく楽しめるというわけ。

「うん、うん」とうなずきたくなるようなトピックスであふれていますし、読んでいて純粋に楽しいのです。

ということで本書に関しては、以下の文章を「人生を変える一文。」としたいと思います。

この本に書いてあることだけ学んでも言語学者にはなれないが、言語学を学ぶことで得られる「ことばの体力」のようなものが、ほんのちょっとだけ身に付くと考えていただけるといい。
ある意味、ボクサーになるつもりのない人に、体力作りやダイエットのためにボクシングのトレーニングを提供するのと似ている。(「はじめに」より)

言語学に興味はあるけど、言語学者になれるだなんてつゆほども考えておらず、ダイエットはしたいけれどボクシングなんか怖くてできない。そんな僕のような人間にはぴったりの、“入り口”として最適な一冊だというわけです。