「何が不満なのか」が口癖だった信長

ところが、信長さまは気に入ると信じられない抜擢をされますし、秀吉もその恩恵にあずかったわけでございますが、少し期待に応えられなかったり、落ち度がなくても別の人を使いたいと思ったら、突然、お役目や領地を取り上げられたりなさいます。

あるいは、信長さまは会話のなかで人をよくからかわれました。ご本人は、面白がっているだけかもしれませんが、言われた当人はひどく傷つくことがございます。

松永久秀さまを例にとれば、兄殺しの張本人だと将軍足利義昭さまが反対されるのに、強引に取り立てるくらいに評価され、あるいは浅井に裏切られて絶体絶命の窮地に陥ったときに、金ヶ崎からの撤退の段取りを立ててもらったにもかかわらず、地盤の大和国の仕切りを突然にライバルだった筒井順慶さまに任せたりされました。

信長さまにしてみれば、これまで十分なことをしてやったが限界が見えてきたので、今の状況では筒井に任せた方が良いといった判断をされたのでしょうが、久秀さまが半生をかけて切り取った大和国を、いきなり取り上げられるのは我慢できなかったのは当然でございます。

もしくは、徳川家康さまに対して「この老翁は、世の人がなしがたいことを三つもした者である。将軍を弑虐(しいぎゃく)し、また自分の主君である三好を殺し、奈良の大仏殿を焼いた松永という者である」と言ったので、久秀さまは汗を流して赤面したという話が江戸時代の軍記物にございます。

本当にこの言葉の通りかどうか知りませんが、秀吉のことを猿とか鼠とかおっしゃるくらいですから、さもありなんです。

また詳しくお話しいたしますが、浅井長政さまや荒木村重に裏切られたのも、恩賞への不満が根本にあったと思います。信長さまは合理主義者ですから「何があいつは不満なのか」というのが、裏切られたときの口癖でございました。

秀吉などは「信長さまはそういう方だからと割り切って付き合えばよし」という人だから良かったのですが、誰でもそうとは限りません。

▲どんなときでも応援してくれる秀吉 イラスト:ウッケツハルコ

その点、秀吉は本当にそのあたりがにくたらしいほど上手です。関東に家康さまを移すときでも、石高が増えると言うだけでなく、お国替えで家内における家康さまの統制がとりやすくなるように、辺鄙だが大坂に似た地形で発展しそうな江戸を居城にするようにとかいうだけでなく、家臣の封地や石高まで指示いたしました。

井伊直政を12万石で上州箕輪にとか、本多忠勝を上総大多喜、榊原康政を上野館林でそれぞれ10万石とかまで決めて、酒井忠次のような高齢になりすぎた家臣より上にもってくるというのを、秀吉の命令ということで実現させてくれるので、家康さまは大喜びだったのでございます。

物言いも、本人に向かっても人垂らしですが、たとえば私にも人の評価などいろいろ聞かせたりするのですが、人の口を使って本人にさりげなく聞こえるようにしているわけで、ともかく上手なのでございます。

光秀さまが何がご不満だっただろうといったことは、これからお話しいたします。いろいろあると思うのですが、それが謀反にまでつながったのは、やはり、そのような信長さまのやりようがあってのことだと思うのでございます。

※ 松永久秀に対してに限らないが、信長が口にしたとして伝えられる言葉は、いずれも江戸時代初期などに伝聞をもとに書かれたものなので、どこまで真実かは、まったく不明である。

※ 家康が譜代大名に与えた最大の石高は、井伊直政の佐和山18万石である。関ケ原での功名で高崎12万石から加増された鳥居元忠は、関ケ原の戦いの前に下総矢作4万石だったが伏見城を守って戦死したので、息子の忠政に磐城平10万石、のちに加増して山形22万石。家康らしい人事だ。

※ 余談だが、北朝鮮の体制が意外に安定しているのは、意外にも秀吉の人事に似て、失脚しても復活が期待できるからだそうだ。地方の閑職に回されたり、教育施設に入れられたりしたあとに復活している例がしばしばみられる。脱北者でも許されて帰国している人も多い。