カレンダーとカルタのおかげで本が出せた
その頃から、ヒマがあると色紙の上でサインペンを走らせるようになった。頭の中でイメージした世界が、手を動かすごとに形になっていく。家族も「すごいじゃない」なんて言ってくれる。僕はすぐ調子に乗るから、どんどん描いちゃった。
そしたら、知り合いの印刷会社の社長さんが、僕が絵を描いてるのを知って「カレンダーを作ろう」って言ってくれたの。たしか、まだ50代だったから、30年ぐらい前かな。
カレンダーにするために、1月ならお正月、2月は節分って、その月にふさわしい絵を考えて描いた。最初の頃は、毎月2枚ずつ絵が入る作りだったから、全部で24枚も描かなきゃいけない。けっこう大変だったな。
出来上がったカレンダーは、販売したわけじゃなくて、お世話になった人や仕事関係の人にプレゼントしてました。僕の絵が出来上がらないと制作に入れないから、3月ぐらいになって完成した年もあったな。まあ、それもご愛敬だよね。そんな感じで、10年ぐらい作ってた。
それからだいぶ経ってからだけど、僕の絵を使ってカルタを作ろうっていう企画が持ち上がったんだよね。ドリフターズ研究会っていう集まりがあって、僕も飲み会に参加したり、いっしょに旅行に行ったりしてた。
グループの幹部の1人が、ドリフにちなんだ読み札のコピーを考えて、僕がそれに合わせて絵を描いていく。だいたい出来上がってたんだけど、事情があって話が流れちゃった。
この本に載せてるなかで横長の絵は、カルタのために描いたやつかな。もともと色紙の右上に「あ」とか「い」とか字を入れるための丸いスペースが取ってあったから、絵自体は横長になってる。どちらかというと、メンバーのうち誰か1人しか出てこない単体の絵が多いんじゃないかな。
絵をたくさん描きためられたのは、カレンダーとカルタのおかげです。仕事ってわけじゃないから、そういう「描かなきゃいけない理由」がないと、なかなかやらないよね。「明日でもいいか」と思ってテレビで時代劇とか見ちゃう。いったん描き始めたら、楽しくて没頭しちゃうんだけど。
ひとりで机に向かって絵を描く作業は、ステージでお客さんに向かってウクレレを演奏したり、みんなでコントを作ったりするのとは、ぜんぜん違う。自分の世界に入り込んで、せっせと手を動かし続ける、とっても地道な作業だよね。でも、もともと地道な作業は好きなほうかもしれない。楽器をやってるからか、手先も器用なほうだと思う。
みんなでカニを食べに行くと、いつも決まって、僕がいちばん最後まで丁寧に身をほじってる。食べ終わった人に「ブーさん、まだやってるの」なんて驚かれちゃう。ほじり始めると、徹底的に身を取り尽くしたくなるんだよね。
孫のコタロウが小さいときは、毎月買ってた『てれびくん』っていう雑誌の付録を組み立てるのは、僕の係だった。子ども向けのはずなのに、なかなか難しいんだよね。徹夜して作って、寝てるコタロウの枕元にそっと置いてた。起きた瞬間にビックリするのが楽しみでさ。
娘のかおるが小学生のときも、宿題の工作を代わりに作ったことがあったな。ボール紙でステージを作って、その上に赤いネグリジェ姿の加藤(茶)がいて、ひもを引っ張ると足がピョンッて動いて「ちょっとだけよ」ってなる仕組み。どう考えても、娘が作ったものじゃないよね。
小学校は自宅のすぐ近くで、先生も父親が高木ブーだって知ってた。その工作を見て、父親が作ったことを察したんだろうね、でも、とっても感動してたらしいよ。あれは、残しておけばよかったな。