陰陽師の世界も出世には推薦が必要?
陰陽寮には、陰陽・暦・天文・漏剋(ろうこく)の4部門があり、各部門に博士の肩書を持つ技官がいて、博士の下にそれぞれ学生がいました。彼らは陰陽博士から認められれば、現在の国家公務員にあたる官人陰陽師になることができたのです。
組織としては、長官である以下、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下、助(すけ)・少(しょう)・允(じょう)・大属(たいぞく)・少属(しょうぞく)……などの事務官僚がおり、陰陽部門の定員は陰陽師が6人、陰陽博士が1人、陰陽生10人というのが原則でした。
呪術高専で例えるなら、学長が陰陽頭、学年担任が陰陽博士、総監部長が中務省、補助監督は少允以下にあたるでしょうか。
ここで“助以下”ではなく、“少允以下”としたのには理由があります。
12世紀中頃には、陰陽博士と陰陽頭だけでなく、陰陽寮の次官である陰陽助まで、賀茂・安倍二氏の独占状態に置かれていたからです。この両氏の下に格付けされた大中臣・中原・惟任(これとう)・清科・伴・菅野・佐伯の七氏には、少允以上の出世が望めず、少属から大属、大属から少允へ昇進するにしても、頭または助の推薦が必要とされました。
そのため、七家出身者は安倍氏か賀茂氏の誰かと師弟関係を結ぶことで、将来の推薦を期待するしかなかったのです。
現実の陰陽師の世界でも「第一者」「第二者」という序列がありましたが、これは必ずしも実力に比例するものではありませんでした。陰陽師第一者=陰陽頭であればわかりやすいのですが、両者はイコールで結ばれず、第一者のほうが実力は上で、なおかつ陰陽寮以外の部署の役人であることも多かったので、よけい話がややこしくなります。
肩書が実力を反映しているのなら、朝廷の大官は第一者・第二者を優先させそうです。
事実、藤原道長が私的に使役(しえき)した陰陽師の8割以上は第一者か第二者でした。ところが、道長の子孫で、若干19歳にして正二位右大臣に登った九条兼実(くじょうさねがね)が、第一者・第二者を私的に使役した事例は2割に満たないのです。8割以上は第三者以下の陰陽師だったわけで、そのうち約8割は賀茂氏か安倍氏で占められていました。
兼実の日記『玉葉』を見る限り、彼が日記をつけ始めてからの34年間で、私的に陰陽師を使役した回数は336件、陰陽師の数は26人です。同じ陰陽師を繰り返し指名していた点から考えるなら、兼実は公式の序列ではなく、過去の実績や自分との相性、個人的な信頼関係などに重きを置いていたことがわかります。
そうなると、五条悟(ごじょうさとる)のような人間が陰陽師として兼実と同時代にいた場合、兼実から指名される立場になれたかどうか、想像を膨らませてみるのも面白いものです。
呪術高専関係者では、いったん一般社会に出ながら出戻った七海建人(ななみけんと)は稀有な存在とされていますが、平安・鎌倉時代の陰陽寮出身者としては十分ありうる進路でした。陰陽道の知識があるというだけで、有用な人材と目されたからです。
それに対して陰陽師としての任務を果たさず、自由奔放に生きる九十九由基(つくもゆき)や、重大な規約違反を犯し、放校処分となった夏油傑(げとうすぐる)のような存在が、陰陽寮出身者にいたかどうかは確認のしようがありません。
蘆屋道満(あしやどうまん)は夏油傑にやや似ているのですが、架空の人物ですから、比較検討のしようがありません。停学処分中の秤金次(はかりきんじ)と星綺羅羅(ほしきらら)も同様ですが、主人公が、敵対の過去のある者や破門された兄弟子を人間的な魅力によって仲間に引き入れることに成功し、力をあわせて大業をなすという展開は、中華圏のカンフー映画やドラマ、小説などの「武侠」と呼ばれるジャンルではよくあるパターンです。
日本の漫画界でも1990年頃から、このパターンが取り入れられ、いまやバトル系漫画では定番と化していますが、舶来の文化を自家薬籠中の物に改変する巧みさは、陰陽五行説から陰陽道をつくりだした構図を彷彿とさせます。