足利大附属高校レスリング部のシンボルとなった三沢

さて、教えることになった当初、三沢のことを「全然ダメ」と言っていた谷津だが、その後、どう変化していったのだろうか?

「トップに大島(大和)監督がいて、高校の監督の浦野(和男)さん、そして俺という体制で。本来、俺は大学で教える立場だから、高校に関しては預かった三沢、川田、大川の3人以外はあんまりタッチしなかったけど、3人をチャンピオンにするっていうノルマは厳しいよ。

三沢の場合はメンタルの部分で“絶対に自分を信じろ!”って。三沢は片足タックルで倒してポイントを取っていくタイプで、川田はどっちかというと投げ……差しながら、両差しにして倒していくっていう戦い方だったね。

最初は勝つ気持ちが見えなかった三沢も、段々と研ぎ澄まされていって、勝つための執念が生まれた。勝負の世界に目覚めちゃうところまでいけば、あとはもう自分でなんでもやるからさ。その目覚めさせるのが大変なの。負ければ“やりたくねぇ”ってクサっちゃうけど、勝ってくると“もっと勝ちたい!”ってなってくるでしょ。大事なのは勝つ喜びを与えることなんだよ」と、谷津は言う。

だが、三沢に高校時代の話を聞いたときには「勝って当たり前っていう感じだから、絶対に負けられない。他校の選手が同情してくれて、それで勝てた時もあるっていうかさあ」と、勝つ喜びよりも、勝たなければいけないプレッシャーをよくしゃべっていた。

渡部にしても「負けたら“床の上でずっとブリッジやってろ!”とか、セコンドも“何やってんだ!”ってぶん殴られてましたからね。なにしろ僕は、試合中に反復練習させられましたから(苦笑)。

相手がガーンと組んでくるんで、先生は“それを外して腕を取れ!”って言ってたんでしょうけど、なんかうまくできなかったんですよ。1ラウンドが終わって戻ったら“何やってんだ、お前は。やってみろ!”って1分間のインターバルの最中に、座らないでセコンド相手に反復練習させられて“そうだ、できるじゃないか、行ってこい!”って。当時はそれが当たり前でした。

勝っても怒られている僕らを見て、対戦校の先生が“お前、よくやったよ。せっかく勝ったのにな”って感じで声を掛けてくれることが何回もありました。で、浦野先生より年上の先生だと“お前、ちょっと褒めてあげたらどうだ?”って言ってくれていたみたいです」と言う。

これを谷津にぶつけてみると「ぶん殴っていたのは、俺じゃなくて浦野さんね(苦笑)。それをパフォーマンスとして見せるんだよ。そうすると“お前、どうしてそんな厳しいところに入ったんだよ!?”って他校の生徒が同情するわけですよ」と笑っていた。

谷津は、三沢の足工大附属の3年間を振り返って今こう語る。

「今、三沢は足利大附属高校レスリング部のシンボル的な存在だからね。俺の後輩の石川利明が今の監督で“先輩、いいんですか?”って言うんだけど“いいから、三沢をデカく出せ。それが一番だよ”って。アマチュアの実績は国体優勝ぐらいしかないけど、俺じゃなくて三沢の出身校でいいんだよ。実績は俺のほうが全然上でも、世の中は“三沢が出た学校”っていうことで見るからね。だからホームページでも、もっと三沢をデカく出さないと。

三沢は普通のプロレスラーとは違う領域にいってるからね。正直、ある時期までは三沢を認めてなかったんだよ。なぜかって言ったら、高校生のときの“泣き虫・三沢”のイメージが強かったから。でも、目線を変えてプロレスラーとしての彼の実績を見たら、誰も敵わない。三沢はプロレス界においては、俺なんかより全然上の人間だよ。ああいう後輩が身近にいて、接することができたのは自分の誇りですよ」

▲のちに全日本プロレスのマットで再会することに谷津と三沢(1986年10月20日)

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。


プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。