悪行が暴かれたきっかけは「ベルリンの壁」の崩壊

そのきっかけとなったのは、1989年ドイツで起きたベルリンの壁の崩壊です。

ドイツの大都市ベルリンは戦後、アメリカやイギリス、フランスとソ連によって分割管理され、その後、米ソ対立を受けて西ドイツと東ドイツに分離されてしまい、ベルリンもアメリカなどの占領地域とソ連の占領地域とに分割され、その境界線に壁がつくられたのです(壁をつくったのは、ソ連側の東ドイツ政府です。東ドイツ側の住民たちが西ドイツ側に逃げようとしたので、それを阻止するためです)。

▲ベルリンの壁 出典:Lisa / PIXTA

日本で言えば、敗戦後にアメリカとソ連が占領軍として進駐し、北海道と東北はソ連の占領地域、それ以外はアメリカの占領地域となった。その後、米ソの対立によって北海道と東北は、東日本として独立、関東以西は西日本としてそれぞれ独立し、東北と関東の県境には壁がつくられ、相互の行き来が禁止されたようなものです。

ベルリンの街にいきなり壁がつくられて往来が禁じられたことから、家族でありながら会えなくなるという悲劇が生じました。

しかも東ドイツでは、秘密警察による監視が強まり、政府批判を口にすると、いきなり逮捕され、拷問を受けるというのが日常茶飯事となりました。

そのため、秘密警察に逮捕されて殺されるのは嫌だと、多くの東ドイツ市民が、西ドイツに亡命しようとして、このベルリンの壁を越えようとしました。しかし、彼らは東ドイツ、つまり共産党の秘密警察によって射殺されています。この犠牲者を追悼する資料館が現在、ベルリンに建てられ、多くの市民がいまも追悼に訪れています。

自由主義国となった国々のソ連の告発が始まる

このように、ベルリンの壁は米ソによる東西対立の象徴であったのですが、1989年11月に東ドイツ政府が西ドイツへの移動を容認したことから、ベルリン市民たちによって、この壁は壊されることになったのです。その後のベルリンを訪れた方はご存じでしょうが、ベルリンの壁の破片がお土産として売られています。

▲ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日) 出典:Lear 21(ウィキメディア・コモンズ)

翌年、東西ドイツが再統一され、ソ連の影響下にあった中・東欧諸国も次々と共産主義国から自由主義国へと変わりました。ソ連邦も1991年に崩壊し、共産主義体制を放棄してロシアという国になりました。

このソ連邦の崩壊と、中・東欧諸国がソ連圏から離脱し、自由主義国になったことで、近現代史の見直しが始まったのです。

第二次世界大戦後、ソ連・共産圏に組み込まれていたポーランド、ハンガリー、チェコといった中・東欧諸国や、ソ連邦に併合されたリトアニア、ラトビア、エストニアらバルト三国が、共産党政権時代の圧政と、共産圏に組み込まれる原因となった第二次世界大戦と、その後のソ連による侵略・占領を一斉に告発し始めたのです。

正確にいうと、ポーランドは第二次世界大戦当初、ナチス・ドイツとソ連から攻撃を受け、ドイツとソ連によって分割・占領されました。ところが独ソ開戦に伴い、ソ連はポーランドのドイツ占領地域にも攻撃を仕掛け、ドイツ敗北とともにポーランド全土がソ連の支配下に入りました。

ナチス・ドイツに攻め込まれ、婦女暴行や理不尽な殺人、強制労働などで苦しめられてきたポーランドなどの人々は、ソ連軍がナチス・ドイツを破ってくれて「これで助かった」と思ったものの、ソ連軍の暴行はナチス・ドイツよりも酷かった、というわけです。

リトアニア、ラトビア、エストニアらバルト三国も1939年からソ連の占領下に入り、1941年にナチス・ドイツによって占領され、1944年に再びソ連の占領下に入りました。

しかも戦争終結後、ソ連はバルト三国をそのまま併合してしまいました。そのほかに、ハンガリーやチェコなどに対しても、軍事力を背景に共産党一党独裁政権を樹立させ、ソ連の属国として支配したのです。

▲ヴィリニュスにあるソビエト占領によるリトアニア人犠牲者の記念碑 出典:Alma Pater(ウィキメディア・コモンズ)

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。