個人が走り書きで書いたメモを否定しないが、公文書と一緒にしてはいけない。日本では歴史を語るうえで、私文書と公文書が一緒になっていることがあると、憲政史研究家で一般社団法人 救国シンクタンク所長の倉山満氏は警鐘を鳴らしています。考え方の違う国と話し合うにはアーカイブに基づく議論が必要ですが、まずは日本人のアーカイブに対する認識を高めることが大事である。インテリジェンス・近現代史研究の第一人者、江崎道朗氏との対談で深堀りします。

※本記事は[チャンネルくらら]で配信された江崎道朗と倉山満との対談をテキスト化し、一部を抜粋編集したものです。

政治は「公人としての発言」で動くものである

倉山満(以下、倉山) 個人の書いたメモと公文書をごっちゃにするなという話をされていましたが、実際「私文書」って、けっこう面白いんですよね。

江崎道朗(以下、江崎) 面白いですよね。

倉山 江崎先生が例え話で「倉山って、こんな悪い奴だ」というメモが出たら、騒ぎ出す人がいるって話をされましたが、平民宰相と呼ばれた原敬がそれをやっているんですよ。「山縣有朋という奴は本当に悪い奴だ」というのがあって、それが戦後の大正デモクラシー研究の出発点になったんです(笑)。

江崎 私文書は面白いですからね。でも、僕なんかは政治家といろいろ話していますけど、政治家って、国会で話すとき、党の部会で話すとき、非公式に民間人と話すとき、支援者と話すとき、身内で話すとき、その時々で話す内容が違いますからね。

倉山 そうですよね。

江崎 全く違うんです。それは当たり前なんですよ。彼らは場所によって使い分けをして話すんですよ。そのなかでも、国会で話をするというのは責任ある発言なんです。だから、政治家個人のさまざまな発言についても「順番をきちんとつけていく」ということが大事なわけです。

「個人としてはいろいろ思っていらっしゃるでしょうけれど、国会で責任ある発言をするときは、このメモを見て話してくださいね」となるわけですよ。個人の考えはわかるけど、公人としてはこう言ってくれないとないと困る、ということです。

▲政治は「公人としての発言」で動くものである イメージ:まちゃー / PIXTA

倉山 政府の役職についたら当然そうなりますよね。

江崎 大事なのは、その「公人としての発言」で政治は動くんです。

倉山 権力を伴いますもんね。

江崎 その権力を伴う言葉というものと「あれって、実はこうなんだよね」と身内で話をしているものとはまったく違う。

倉山 身内のなかでの話は、それはそれで面白いですけどね。

江崎 面白いし、それも大事だけど、身内の話をメモしたものと公文書の区別はきちんとしましょうよ、ということです。

倉山 そうですよね。日本の政治家やメディアの人々は「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の違いがわかっていないです。一次資料と二次資料もごっちゃになっているし、公文書と私文書もごっちゃ混ぜ。資料等級としてはかなり低い私文書が先にいっちゃうケースもありますからね。公と私って、あんまり考えない近代の日本人は「公文書は政府が作った官僚の文章」だと思っているところがありますよね。

江崎 それはありますね。だから、永田町である程度まともに政治の仕事をやっている人間は、私の本に書かれている議論について、感覚的なところではわかると思います。

倉山 近代史家からは、そんな議論はイヤだと言われています。それ以外の専門家の人とか、全く関係がない実務家とか経営者とか理系の人にはすんなりとわかってもらえていて、「歴史学ってそんなにロジカルだったんだ」と言われることが多いです。