日本武道館が超満員に! 空前の超世代ブーム到来
天龍退団、相次ぐ選手の離脱で一時は存続の危機も囁かれた全日本だが、鶴田という強大な壁に超世代軍がひたむきに挑む姿は、若いファンの心をがっちり掴んだ。
「普通だったら、彼らがジャンボとメインでやるなんて5年先のはずだからね。それがいきなりだもん。まして2m近い人とバンバンやるんだから必死だよ。あの頃、三沢も川田も小橋も、実際には100kgなかったと思うしね。そういう若い人間が、あのジャンボ鶴田に向かっていったんだから、それは若いファンは応援しますよ」と、レフェリーの和田京平は述懐する。
事実、鶴田vs三沢の再戦が行われた9月1日の日本武道館は、超満員札止めの1万5300人を動員。ファンも世代交代して、鶴龍時代以上の活況を見せるようになっていくのだ。
「87年春に長州(力)さんたちのジャパン・プロレスが新日本に戻った時は思わなかったけど、天龍さんが辞めた時は“ヤバい!”って思った。それまで天龍さんでもっていたようなものでしょ? 当時はまず天龍さん、次に鶴田さんみたいな感じだったでしょ? その天龍さんを欠いちゃうのかっていう。正直、全日本プロレスが潰れちゃうんじゃないかと思ったよね。
6月30日の後楽園のワンナイト・スペシャルは5試合しか組めなかったけど、お客さんが温かくて。それからあり得ない大爆発だもんね。普通は東京でお客さんが入ったとしても、地方に浸透するのには半年ぐらいかかるんだけど“ある日、突然に!”っていうぐらい急だったね。どんな田舎に行ったって、最低でも前売りで1千万円売れたんだから。営業の人間が“1千万円売れていなかったら恥ずかしい”って。超世代軍でホントに入ったよ、お客が。
それまで鶴田さん、天龍さん、長州さん……みんないても武道館の上まで埋まらなかったのが、埋まるようになったんだもん。もう、お客さんには感謝しかなかったね、天龍さんが抜けて2シリーズはダメだったけど、3シリーズ目から盛況になったからね。その後、93年に『超世代軍と行くハワイツアー』をやった時には143人来て、140人が女の子だったから。すごい時代だったよ」と、超世代ブームのすごさを語っていたのは当時リングアナウンサーだった仲田龍だ。
では、当事者の選手たちはブームをどう感じていたのだろうか?
「今までの全日本プロレスの流れとは違ったものが生まれたからこそ、客層が全然変わったと思うし。あそこで、あからさまに今までの全日本プロレスとは違う流れができたと思うんだ。天龍さんがよく“俺が出て行ったおかげで、そうなったんだから”って言うじゃん。それはたしかにある部分では当たっていると思う。
もうちょっと時間がかかっていたら、その時には遅かったかもしれないよね、みんなの年齢も上がっちゃうから。テレビが夜中の1時とか2時とかの放送だったけど、もし輪島さんがやってた時間帯(ゴールデンタイムの午後7時からの1時間枠)に放送していたら、もっと変わっていたよね」と言うのは川田だ。
小橋は「ファンのみんなに応援してもらうと、試合も“もっと、もっと!”って頑張れるし、よりいいパフォーマンスをしたいっていう思いもありましたし、やっぱり相乗効果があったんじゃないですかね。やり甲斐があったし、よりプロレスに集中できましたね、あの頃は。余計なことは考えずにプロレスだけに集中できた時代だと思います」と言う。
全日本プロレス中継は、88年4月3日からゴールデンタイム枠を外れて、日曜日午後10時30分からの1時間枠に移行させられ、90年4月10日からは同じ日曜日の深夜0時30分からの1時間枠になってしまったが、深夜枠に移行した直後から若者向けの番組にシフトした。
今やフリーアナウンサーの大物・福沢朗アナウンサーの「プ、プ、プ、プロレスニュ~ス!」のフレーズでお馴染みの『プロレスニュース』なるコーナーを番組内に設けて“福沢ジャストミート朗”がブレイクしたり、CCガールズなどのアイドルタレントをゲストに招いての副音声放送など、新しい試みで若いファンを開拓したのである。
こうした超世代ブームにあって、鶴田は鶴龍時代と同じくヒール的な立場。和田は「ジャンボは三沢にジェラシーがあった」と言うが、渕は「京平ちゃんにはそう見えたのかもしれないけど……鶴田さんはすごく楽しんでいたよ。超世代軍の若いヤツらとは体の大きさも違うし、三沢なんて付き人だったんだから。それを相手に自分の思いどおりにガンガンやっていたから楽しかったと思うよ。お客さんは入るし、ブーイングを楽しんでいる部分もあったし。あいつらはあいつらで人気が出てくるし」と語る。
どうあれ、鶴田の三沢らに対する攻めは厳しかった。「鶴田さんが三沢の鼻を折っちゃったこともあったもんなあ(91年10月14日、大阪府立体育会館での鶴田&田上&小川vs三沢&川田&小橋)。翌日、三沢は“寝たら顔が腫れちゃっていたと思うけど、痛くて一睡もできなかったんで、逆に普通の顔で試合ができますよ”なんて言ってたよ。怒ると怖くて強いんだっていうことで、天龍戦のとき以上にジャンボ鶴田の存在感は大きくなったと思うよ」(渕)
三沢らの超世代軍にとって、倒さなければいけないのは鶴田だけではなかった。三沢がタイガーマスクを脱ぐまでは明らかに格上だったスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウイリアムス、ダニー・スパイビーらのスーパーヘビー級の“外国人四天王”と呼ばれた選手たちとの激しい戦いも、ファンを熱狂の渦に巻き込んでいく。
※本記事は、小佐野 景浩:著『至高の三冠王者 三沢光晴』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。