鶴田やハンセンを追いかけていた三沢に共感

一方、敗れたハンセンは、自ら三沢に握手を求め、控室では「負けたのはアクシデントだが、意識がなかったので仕方がない。三沢は強くなった。ジャンボ、テリー・ゴディらに揉まれて、時代がそうさせたんだろう」と、暴れることなく語った。後年、ハンセンは全日本で戦った時代をこう振り返っている。

「私は20年近く全日本にいたが、いろんな時代があり、そこには本当に素晴らしいコンペティション(競争)があったと思う。(中略)全日本での長い歴史の中では三沢、川田、田上、小橋……彼らが自分たちの時代を必死に創り上げていたときが、ビジネス的にはベストの時期だった。

あの時代は、若くて新しいタレントが初めてトップに立つことによって、新しいファンが増えて興行収益的にベストだったと思う。そこで下から突き上げてくる彼らを叩きのめして阻止するのが、私の置かれたポジション、役目だったから必死になって戦っていたよ。(中略)最初は彼らが何もできずにボコボコにされている姿をファンは見ている。

それでも諦めずに下から突き上げて、いずれはトップに立ったことにファンは共感を覚えただろうし、その過程で彼らが本物だということも理解してくれたと思う。何も困難がなく、すんなりとトップに立たせたら、ファンは認めてくれなかっただろう。時間はかかったが、彼らがトップ・ポジションに成長したことは、私にとってもうれしいことだったし、誇りに思っている」とハンセンは語った。

四天王プロレス時代よりも、鶴田やハンセンを追いかけていた時代の三沢のほうが印象に残っていると言うのは渕だ。

「俺としては、四天王の試合はもちろんそうなんだけれども、鶴田さんとかハンセンに負けた試合……この2人を追い抜いてエースを目指すんだっていう感じで、ガンガン昇っていく途中の三沢の試合が印象に残っているな。

91年4月の鶴田さんにバックドロップ3連発を食らった試合とか、翌92年の一連のスタン・ハンセンとの試合が、俺の中では三沢のベストバウトかな。向かっていく三沢に声援が集まって、三沢の頑張りによって当時の全日本プロレスにお客が来て、ある面、全日本プロレスが全盛期を迎えることができたと思うんだよ。

鶴田さんと初めてシングルをやった90年6月8日の日本武道館は超満員じゃなかったけど、一応、恰好はついてね。三沢が大番狂わせで勝って、リング上で涙を流して、そこからの三沢の頑張りでお客さんがどんどん付いてきたからね。三沢の頑張りが見ている人たちの活力になったと思うし、そのうえでやっぱり“ああ、ジャンボ鶴田とスタン・ハンセンは強いんだ!”って、逆にこの2人の強さを引き出した三沢の頑張りもすごかったよね。

(中略)三沢の存在がなければ、最終的に年7回の日本武道館が超満員にはならなかったよ。90年から94年の5年間……鶴田、ハンセンに向かっていった三沢、それから94年3月5日に馬場さんからフォールを奪った三沢(馬場&ハンセンvs三沢&小橋)が、俺には印象に残っているね。それ以降は鶴田さんもハンセンも全盛期を過ぎて、四天王時代になると川田や田上、小橋、秋山(準)相手に胸を貸す三沢だったからね」と渕は言うのである。

▲ついに三冠王者に昇りつめた三沢は長期政権を築いていく

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 

プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。