蔣介石から贈られた「和平信義」のカフスボタン
三笠宮担当の陸軍大学校教官の辞令が下って帰国する小野寺に、蔣介石は金製のカフスボタンを贈りました。ボタンには自筆の「和平信義」の文字が刻まれていました。「国と国の間は和平、人と人の間は信義」という意味です。蔣介石は小野寺を信頼して、和平実現へ一縷(いちる)の望みを抱いていたのでしょう。
「自分の一生のうちあれほど心血を注いで張り切って働いたことはなかった」(百合子夫人著『バルト海のほとりにて』共同通信社)と小野寺は、回顧しています。
成功には至りませんでしたが、単身で乗り込んだ上海でのバックチャンネルの経験は、ストックホルムでのスウェーデン王室を通じた終戦工作の予行演習になったに違いありません。
小野寺の終戦工作を「最高機密」にした英国
終戦3カ月前の1945年5月、英国政府が英連邦の主要国である自治領のカナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ共和国に、最高機密情報として打電した特別電報が英国立公文書館に所蔵されています。
「日本のストックホルム駐在陸軍武官が『ソ連の対日参戦』の情報をつかみ、日本の敗戦を認識して、スウェーデン王室筋に日本と連合国の仲介をお願いした」
英国が最重機密要情報と認定したこの終戦打診工作を行った人物こそ、小野寺でした。
小野寺は、ドイツが無条件降伏する2カ月前の1945年3月には、ドイツのリッベントロップ外相からベルリンに呼ばれ、ストックホルムで独ソ和平仲介の要請を受けています。
この要請は最終的にヒトラーが断り実現しませんでしたが、ドイツが降伏する直前にも親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長からの依頼で、スウェーデン王室を通じて連合軍との和平を探っています。小野寺がバックチャンネルとして秘密交渉を託すに的確な人物であると、ドイツから信頼されていたことを示しています。
小野寺はドイツ降伏後の同年5月から、ストックホルムでスウェーデン王室に英王室と日本の和平の仲介を打診していました。
英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、小野寺の終戦工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝え、英政府は「日本が初めて降伏の意志を示した」と判断しています。
そして、小野寺がストックホルムにおいて、スウェーデン国王に英国国王と日本との和平仲介の打診を行った工作を、英国は「最高機密」と判断し、英連邦の自治領だったカナダやオーストラリアなどと情報共有したのです。
またその際、ハリファクス大使は「オーソライズ(正当化)された陸軍武官は天皇の“代理”となるので、(スウェーデン)国王グスタフ五世は興味を持たれ、何事かアレンジ(手配)された」と1回限りの暗号で打電しました。
英国立公文書所蔵の秘密文書によると、英国が小野寺工作を評価した背景には、1945年2月に三巨頭がヤルタで署名した「極東密約」について、会談直後に英国がコピー15部を作成して、ジョージ国王はじめ戦時内閣の閣僚など10数人が情報共有していた事実があります。
米国では、ルーズベルト米大統領が密約文書をホワイトハウスの金庫に封印し、トルーマン次期大統領でさえ、同年7月にポツダム会議に出発するまで知らされませんでした。
つまり英国では、ドイツ降伏後にソ連が中立条約を破棄して日本に刃を交えて来ることを、1945年2月後半からジョージ国王以下指導層が情報共有していたのです。欧州のみならずアジアへも共産主義の浸透を図るソ連を警戒したのも当然でした。
小野寺電報を握りつぶした日本の中枢は、ソ連による和平仲介への淡い幻想を抱き、ソ連にすり寄っていました。これに対し、北欧の中立国、スウェーデンで正鵠(せいこく)を得た情報をもとに、ソ連ではなく米英との和平に乗り出した小野寺を、英国はキラリと光る枢軸側の情報士官と評価したのです。