蒋介石の“豹変”に驚くワシントンの高官たち
その後、蔣介石は、義弟の宋子文から、ここ数ヶ月間に発信された厳しい口調のルーズヴェルトの公電を作成しているのは、ほぼ間違いなく陸軍省であり、必ずしもルーズヴェルトが実際に考えていることを反映していないと知らされます。
しかも1944年9月、カナダのケベックで開催された連合国首脳会談(ケベック会談)に出席中のルーズヴェルトから、蔣介石と中国軍の戦争努力を称賛し、感謝する内容の大変温かく親しみに満ちた公電が届きました。
そこで蔣介石は、確かに宋子文の言うとおり、ここ最近のルーズヴェルトの厳しい電文は、ルーズヴェルトの真意ではないかもしれないと考えました。
蔣介石は決然とした態度を取ることを決意し、中国軍の指揮権をスティルウェルに渡すことを断固として拒絶する、そう伝える公電を送りました。ワシントンの高官たちは蔣介石の豹変に驚きましたが、ルーズヴェルトは蔣介石の要請に応えてスティルウェルを解任し、アメリカに呼び戻したのでした。
横柄で強硬な内容の蔣介石宛の電文に、ルーズヴェルトがそのまま署名してしまいがちだった理由を、ユ教授は「中国問題に関心を払っていなかった」と述べていますが、健康状態が悪化していたことが原因だった可能性もあります。
『ルーズベルトの死の秘密』(スティーヴン・ロマゾウ&エリック・フェットマン:著、渡辺惣樹:訳)によれば、1944年3月には、目がどんよりして、会話の途中でいきなり口を半開きにしたまま放心するような状態で、その後も悪化し続けていました。中国戦域指揮権を巡る公電の往復は7月から9月にかけてのことですから、3月よりさらに健康状態が悪かったはずです。
関心の欠如か、健康問題か、原因がどちらだったとしても、部下が作成した文案をろくにチェックせずに署名していたことに変わりはありません。
もちろん、大統領が自分名義の公電の文案を、すべて自分で作ることは不可能ですから、部下に草案作成を命じるのは当然ですが、党派的利害のために部下が好きなように作成した文案が、そのまま大統領の公電になってしまうというのは恐ろしいことです。ましてや、部下の中に、敵対勢力の利益を図る工作員が紛れ込んでいたら、外交を乗っ取られてしまうことになるのですから。
※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。