猪木の“裏切り”により夢の続きは白紙に戻った

そして迎えた8・26当日。超満員に膨れ上がった武道館は、凄まじい盛り上がりとなり、それはメインイベントで最高潮を迎えた。最後は、猪木がシンから逆さ押さえ込みで3カウントを奪い、BI砲の勝利。両巨頭が勝ち名乗りを受け大団円と思われたが、ここで猪木が仕掛ける。マイクを握り、こうアピールしたのだ。

「私は馬場選手と闘えるように、今後も努力していくつもりです! 二人が今度リングで会うときは、闘うときです!」

これに対し、馬場も笑顔で頷き「よし、やろう!」と快諾。場内は爆発的な盛り上がりとなった。最後は馬場と猪木がリング上で抱き合い、プロレス界の未来を照らすような感動的なエンディングを迎えたが、その後、夢のBI対決が実現することはなかった。

「『二人が今度リングで会うときは、闘うときです!』というのは、猪木さん、渾身(こんしん)のひとことですよ。これを言うために、オールスター戦に出たようなもの。それぐらいの名演説だったけど、馬場さんにとっては、迷惑の“迷”演説ですよ。あんな客前のリング上で『やろう』と言われて、馬場さんも『やらない』とは言えないからね。

猪木さんは、それをわかっていて言った。だから、馬場さんからしたら、試合前と試合後、二回もだまし討ちに遭って、結局『やっぱり、猪木は信用ならない』となって、その後の話は白紙に戻ったんです」

こうして“公約”されたはずのBI対決は幻となってしまった。しかし『夢のオールスター戦』の第2回大会は、実はこの3年後の82年に実現寸前までいっていたと新間は語る。

「80年代に入ってから、新日本と全日本の外国人レスラー引き抜き合戦が始まってね。最初にウチがブッチャーを引き抜いたんだけど、逆にシンを引き抜かれ、最終的にはスタン・ハンセンまで取られたことで、新日本が白旗を上げたわけですよ。それで東スポに仲裁に入ってもらい、全日本と引き抜き防止協定を結ぶかたちで休戦となったわけだけど、そのときに第2回『夢のオールスター戦』の話が持ち上がったんです」

当時の新日本は、初代タイガーマスク人気で大ブームを巻き起こしていたが、猪木の個人的事業であるアントンハイセルが火の車となり、資金繰りに困窮していたため、この案にすぐ飛びついたのだ。

「あの頃は、すぐにでもカネが必要だったから、東スポの本山社長のところに行き、『先に手付金をください』とお願いして300万円の小切手をきってもらってね。馬場さんにも同額の小切手が渡されたんですよ。それで新日本はすぐ換金して右から左だったけど、馬場さんは『また猪木が土壇場で裏切るかもしれない』と、小切手には手をつけずに、返事を渋っていたんです。

そしたら、東スポの大会責任者がしびれを切らして、全日本の米沢(渉外部長)を呼んで、『こっちは馬場さんにもうカネ渡してあるんだから、早く返事をしろ!』と言ってしまった。でもこの話は、極秘で進めていたものだからね。情報を漏らした東スポに馬場さんは激怒して、『これはお返しします』と小切手を返して断りを入れた。こうして第2回のオールスター戦は、幻に終わったんですよ。

まあ、東スポがミスをしなくても、馬場さんが猪木さんを信用してなかったから、実現しなかったかもしれないけどね(笑)」

その後、新日本と全日本の交流は、猪木が参院選に当選して第一線を退き、坂口征二が社長となった90年になって行なわれたが、馬場と猪木がリングで並び立つことは、ついになかった。

8・26「夢のオールスター戦」は、ファンにとって一夜限りの夢だったのだ。

▲結局、この日がリング上で見る最後のBI砲になってしまった

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。