過酷なキャンプを乗り越え、野村監督の教えをもとに自分のスタイルが定まってきた野口寿浩氏。少しずつ出場できるようになってきた一軍の試合では、覚えることが特に多かったという。一軍の試合で野口氏は何を考え、何をしていたのか。キャッチャーとして忙しく飛び回るなかで、さらに課せられた役割とは?
生きる道を決めたらバッティングはすんなり
野村さんのミーティングのテーマに、「自分の生きていく道」というのがありました。どう生きていくのかによって、努力する方法が決まると。たとえば、ホームランをボンボン打てるバッターじゃないのに、打撃練習でホームラン狙ってもしょうがない。そりゃそうだと思いました。
1年目のキャンプで、ほかの先輩より全然ボールが飛ばないんです。それで「あ、俺はホームランバッターじゃねえな」という考えになって、小さく構えてカーンとぶつけるだけのバッティングでやっていこうと決めました。「3割 30本 100打点」で生きていけたらいいでしょうが、飛ばないものはしかたがないです。
バッティングで考えたのはそれだけです。シーズン始まってからも、マシンで打つなどの夜間練習はしていましたが、そんなに気を使ってやってはいませんでした。それでも二軍戦でしたが、その年に2割9分打てたのは、ミートに徹することを「生きる道」にしたからだと思います。
そこである程度「打てる」という自信ができて、体が少しずつ大きく強くなり、ちょっと振れるようになってきたら外野のあいだを抜いたり、ホームランにはならなくても頭を越したり、というのが出ればいいなとなっていきました。それくらい「体ができる」というのは大きいです。振れる体が大事なんです。
生まれて初めてキャッチャーのやり方を教わる
打撃よりは、守備のほうが圧倒的に気を使っていました。小学校の頃からキャッチャーをやってきましたが、じつはキャッチャー経験者に教わったことがなかったからです。ヤクルトに入団するまで、“キャッチャーのなんたるか”を教わったことがゼロ。自分の考えで全部やっていただけでした。
だから1年目、2月1日のキャンプインからキャッチャーのことを教えてもらい、すっと入ってきたのはもちろんのこと、逆に聞きたいことだらけでした。当時、ヤクルトの二軍にはバッテリーコーチが存在せず、後にバッテリーコーチも務める高橋(寛)さんが、チームスタッフとしてブルペンキャッチャーや若手への捕手指導をしていました。
すべて我流だったのを、イチから教えてもらいました。配球もそうですし、ワンバウンドを止めるのもそうですし、盗塁を刺すのもそうです。これまでは、ただ捕って握り替えて力任せに投げていただけでした。やっぱり、それなりに時間がかかりました。
ただ、幸せなことに、高卒1年目から二軍では毎試合使ってもらっていました。
だから僕は、一軍・二軍というものにこだわることなく、「自分の今の仕事はこれだ!」としっかり集中することができました。二軍で成長することが仕事だと。
当時、ヤクルトの二軍の捕手は、大ベテランの君波隆祥さんと、ひとつ上の天野(武文)さんがいましたが、決して層は厚くなかったので使ってもらえたのかなと。実際に、指導者の方々がどう考えていたのかはわかりませんが、僕は二軍で次の主戦捕手になろうと思っていました。