星野阪神へのトレードで二番手捕手に・・・

2002年のオフに移籍が決定し、翌03年からは阪神タイガースでプレーすることになりました。星野仙一さんが02年に阪神の監督に就任して、その年は長期低迷がウソのように開幕から快進撃を見せました。しかし、正捕手の矢野さんが脱臼で離脱すると、ずるずると後退し、最終順位は4位でした。星野さんとしては、同じ失敗を繰り返さないために、戦える捕手を2人必要としたのだと思います。

星野さんと大島さんは現役時代中日でチームメイトだったので、僕のトレードを打診していたそうです。大島さんは「俺が使うから絶対ダメ」と、頑として断ったそうですが、大島さんの退任が決まり、トレード話も一気に進んだとのことでした。1995年の話ですが、星野監督率いる中日戦で、僕が初ホームランを打ったのを憶えていてくれたのかもしれません。

しかし、当時の阪神には規定打席を超えて3割を打ったこともある矢野さんという正捕手がいます。こうして僕は、また「二番手」になったのでした。

星野さんといえば「鉄拳制裁」というイメージがありました。参謀の島野育夫コーチもやっぱり怖いイメージで、最初は「やばいとこに来たな……」と思っていました(笑)。でも、入ってみると全然違いました。

人によって時によって接し方を変える野村克也監督とは対照的に、星野仙一監督は、全選手に対して同じように接するのが特徴的でした。若手だろうがベテランだろうが、ミスには厳しいし、いいプレーには両手を上げて喜びます。

そのあり方は、野球に限らず、普段からそうでした。きっと、いつでも全員に対して平等であることを強く意識していたのだと思います。誰と話をしていても、人によって態度を変えるのを見たことがありませんでした。

気づかいの人・島野さんの「マジック」で救われた

人によって細かなフォローをするのは島野さんの役目でした。僕が阪神で一番お世話になったのは島野さんで、本当によく気づかってもらいました。

トレードが決まってすぐ、島野さんと電話で話をしました。「今、秋季練習をやっているけど、こっちに来たりとかしなくていいから。自分で体を作ってやっといてくれよな」とう内容で、信頼してくれているのが伝わってきました。そして、最後に「来年は勝てるぞ」と力強く言ってくれたのを憶えています。

その後も、正捕手から二番手に逆戻りした僕に、いつも気をつかってくれていました。今思うと、島野さんとはあまり野球の話をしませんでしたね。くだらない馬鹿話の相手をしてくれるばっかりで。

意外かもしれませんが、島野さんはマジック(手品)が好きなんです。いろんなマジックを仕込んできては、「おい、新作を披露するぞ」と言って、僕や久慈さんなどを集めて目の前でやって見せて、「どうだ、すげえだろ」って驚かせます。そんな島野さんにどれだけ救われたかわかりません。

島野さんが亡くなったとき、僕は家族と海外旅行に行っていて全然知りませんでした。当時、携帯は海外につながらず、マネージャーからジャンジャン留守電が入っていたのがわかったのは帰国してからでした。最後の留守電は「お葬式終わりました。たくさんの人に見送られて……」といった内容でした。葬儀に出られなかったことは本当に心残りです。

星野さんがお父さんで、島野さんがお母さん。星野さんが星一徹で島野さんが明子姉ちゃん。そんな感じでした。島野さんの予言どおり2003年、阪神はぶっちぎりのリーグ優勝を決め、星野さんは「野口が影のMVP」というコメントを発してくださいました。二番手捕手だった僕にとって、こんなにうれしい言葉はありません。

次回は、阪神での二番手捕手の役割や、星野監督や岡田監督の思い出などを語っていこうと思います。