クーデターに参加した青年将校の思い

クーデター第一夜、ワルソーの諸処に銃声を聞いた。市民の戸外に出るものは僅少であった。第二日、早朝からワルソー郊外ウイスラ右岸の方向に激しい銃砲声を聞いた。政府軍、反政府軍が交戦を始めたのであろうか。午後になるとワルソー飛行場から数十機の飛行機が飛び出して、市内の上空で中隊による編隊飛行を開始した。

それは政府軍の軍容を誇示する意義を持っていた。航空本部長は旧オーストリア系の若い中佐で、ワルソー─チュニス(北アフリカ)間を無着陸往復した当時、航空界の世界的勇士である。彼はまずシコルスキー系統と思われた。彼の統率下にある各地航空隊が動揺せぬ限り、このクーデター戦はあるいは政府軍の勝利に帰するのではないかと、我々各国武官連は寄り寄り話し合った。ところが各地駐屯の航空隊は鳴りを潜めて、いずれよりも出動の模様がなかった。

ひとりワルソー駐屯の一航空連隊が演習的に、示威的に、華やかな飛行を行なっているに過ぎない。ウイスラ東岸の地上部隊の合戦は相当に激烈をきわめている。「航空部隊は何をしているか。馬鹿な奴め」というのが、思うにシコルスキーの心中ではなかったか。

しかし、航空部隊にしてみれば、なんのためか、なんの目的か、なんの理由で地上部隊同胞相食むのか、兄弟喧嘩で何も殺戮しあう理由はないではないか、おれはどちらをも殺し得ないというにあったであろう。

善意の洞ケ峠の筒井順慶を航空部隊全軍がきめこんだのであった。ややハイカラなワルソー師団と、ダンスから遠ざかっていた田舎師団との「軽戦」は、三十個師団を背景とするポーランド大クーデター戦の勝敗を決めたのであった。

第三日早朝からウイスラに架けられた二個の人道橋、一鉄道橋を利用して続々と反政府軍が入城し来たり、いわゆる市街戦が、市の周辺から次第に市の中枢部に移り、午後六時頃には大統領官邸が失陥して、大統領、陸軍大臣その他要人の亡命によって、この革命騒動は一応けりがつき、ピルスツキーは首相兼陸軍大臣に就任した。

大統領は議会の審議のうえで選ばれたが、それはピ元帥の子分である大学教授の某ヘミスト(化学者)であった。かくてロシア軍系将軍連にも花を咲かせるときが来たのであった。

シコルスキーは直路パリに亡命したと報ぜられたが、後にロンドンに永住したようである。現在(昭和二十九年)、彼は依然としてロンドンに住んでいる模様で、ポーランド仮政府の首班として、ポーランドをソ連の桎梏(しっこく)より脱却せしむべく今なお活躍している。彼も七十を越した老爺であろう。

さてその晩、私の宅へ、この騒動に参加した戦車隊、航空隊、歩兵隊の三青年将校が期せずして集ったのであるが、反政府軍であった戦車隊の将校の意気はものすごく「どんなもんだい」というわけであり、歩兵隊のそれは「なんのことかわからんではないか、戦いようもないよ。勝った負けたでないよ」という。飛行隊の将校は「どちらへ爆弾を落とすべきか、決心がつかんよ。なんだか不意に演習に引き出された気持ちだものね」と語るのであった。

「ごもっともだ。クーデター戦などはまっぴらだ。そんな悲しい用兵はないよ」と私は言ったのであった。私は彼らの「演習」に対し、ビールや白ブドウ酒を出してねぎらったのであった。

このクーデターは、いったい何が原因であったか。国民の窮乏を転回せんとする経済的ないし思想的背景があったのか。否、それはなかったと思われる。しからば、ある一国に対する一辺倒な外交、または売国奴的外交の結果として国民の怒りを買ったとみるべきか。それもみられない。内治外交において別に問題のなかった独立ポーランドの「平和期」に突如、武力政変が突発したのは、単に軍、政方面の上層部の「勢力争い」以外の何ものでもなかったのである。

下級青年将校連には馬の耳に風であり、興味外であった。それにもかかわらず、またポーランドが永年民主共和国の経験をもち、更に三国分割による被統治の苦難を経て、相当に民主共和の生活に慣れているはずにもかかわらず、「主権在民」により選定せる大統領の権威がかくも脆く、かくも簡単に、しかも一瞬に崩壊し去り、国民何人もそれを平気で当然のことでもあるかのように見送るということは、私にはなんとしても解し得ないことであった。

▲カトヴィツェにあるピルスツキー像 写真:Jan Mehlich / Wikimedia Commons

樋口季一郎が考察する二・二六事件

ウイスラ河に五月三日橋と呼ぶ大橋が架せられている。五月三日は十六、七世紀頃のある年の五月三日であり、「ポーランド共和国憲法」成立の日であり、ポーランドの「紀元節」なのであった。

彼らは、ポーランド憲法を世界最古の民主的コンスチツチオンなりと誇っていたのであり、それはデモクラチズムの上に立つものとされていた。

この騒ぎのあと、第一回の議会において共産党がピ首相の政策の非民主制を攻撃したとき、元帥は「我々デモクラートの尊重する、また我々のその上に立って政治するデモクラチズムは、国家破壊を目的とする共産党諸君に乱用さるべく、あまりに貴重であり高価である」と答弁したものであって、私は彼のこの「名文句」を今に忘れ得ないのである。

私はこの機会において、昭和十一年の二・二六の未完成クーデターを一瞥するであろう。二月二十六日の安藤大尉その他の集団的破壊行動は、たしかに政府の権威に対するクーであり、ストース(共に襲撃の意)であるから、一種のクーデターである。その経過は、一部「権威」に対する破壊を彼ら青年将校によって敢行し、後始末を他の一権威に期待する行き方である。

そして、もしその後始末を彼らの親分である北一輝が、それを直接担当するならば、それは世界的に共通する行き方でもあった。しかるに北は真崎大将に時局収拾を期待し、真崎起たば自らその裏面的「参謀長」として、はたまた「人形つかい」として活動せんとしたのであって、複雑なること夥しい。

なぜ北ともあろう明敏な革命家が、かかる廻りくどい革命行程を予定したかといえば、それは他の国々同様に簡明直截(かんめいちょくせつ)に進展せしめ得ない牢固たる「巨巌」が、その前進路に横たわっていたからである。それは「天皇の尊厳」であり、「天皇制」である。

天皇の尊厳あるが故に初動において完全に成功した青年将校によるクーデターが、中道において脆くも挫折せざるを得なかったのであり、彼ら青年将校が部下の下士官兵を兵営に帰還せしめざるを得なかったのである。

今わが国の政治家たちは、この辺の問題を軽々に考え、日本国内におけるクーデターの成立を不可能ならしめる、国内平和の絶対的保障である天皇制を軽視しつつあるようだが、これは明らかに彼らの無智を実証するものである。

▲二・二六事件慰霊像 写真:Caito / PIXTA

※本記事は、樋口季一郎​:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。