昭和三年(1928)の早春。約一カ月間、南ロシアへ視察旅行に出た樋口季一郎陸軍中将。現在、ロシアとウクライナの戦争の舞台ともなっている場所で、彼は何を見て何を感じたのだろうか。駐在武官としての視点でつづられる文章からは、当時の国際問題や生活の様子も垣間見え、とても興味深い。
石油が潤していたバクーの生活
私どもはモスクワを発って二昼夜の汽車の旅の後バクーに着いた。バクーは世界的に有名な石油の産地である。ザ・カウカーズ共和国の構成分子たるアゼルバイジャンの首府である。カスピ海( 裏海)に面している。
カスピ海は、塩分含有量の関係かチョウザメが多く育ち、その卵が多く採取されるのであるが、それが有名なチョールナヤ・イクラ(キャビア)である。チョウザメは相当大きい魚であるが、その卵は黒い粟粒ほどの大きさであり、その数量も極めて少なく、美味このうえもない。
日本ではオリーブ油などで保存された缶詰の輸入物であるからそれほどでもないが、それの生ものの薄塩ときてはたまらなく結構なものである。日本の通人の珍重するカラスミにもあたろうか。ロシアでは、この一番の産地はスターリングラード付近とされる。それはヴォルガ河の水と裏海の塩分の混合比の関係からでもあろう。
このバクーは全ロシア唯一の石油供給源であり、現在そこの製品の一部は裏海、ヴォルガを経てモスクワ、レニングラード方面へ、また一部はバトゥム、黒海を経て各地に輸送される。私どもの訪問した当時は、搾油機に旧式のものが多く、ピストンの一往復で一度油が搾られる。それの一往復で二度油が汲み出されるものを米国に注文中というのであった。
油田地帯は狭小な地域かと思っていたところさにあらず、随分と広範囲のようであり、まず宮崎県に例をとれば、全県のところどころに油田が集団的に散在しているとみてよいであろう。一部は海中にある。これらの採掘のため相当広い面全体を干拓すべく実行中であった。
ある油井が火を発し、どうしても消すことが出来ぬと嘆じていたが、それが数カ所もあった。また、ある油井は一旦、油層にボーリングが到達すると、大変な圧力で噴油を始め、それを始末しえないでいよいよ激しい噴油状態となり困っているというのであり、まったく原油の洪水であり、油の流れるままに放置しているのであった。この噴油数本を大切に処理しえれば、優に日本の全産油量を凌駕するであろう。
私どもは、この町の共産党委員会の役員の案内で、某製油地区の共同住宅地を視察した。その住宅地と採油現場とのあいだは二、三里も離れている。それは採油現場はどうしても水が悪く、人間の生活には不向きだからである。新潟付近は産油地も清水に恵まれているが、それは反面さほど石油に恵まれていない証左でもある。
電車の代りにガソリンカーが運転されていた。各労務者の住宅は三室ぐらいであったが、日本の計算で建坪二十五坪ぐらいでもあったか。暖房(この付近は南国だから暖房は大して必要はないが)、炊事、照明すべてそれは産油地から鉄管で引いて来た可燃性ガスによるのである。カスピ海のキャビアを採取した一丈も二丈もあるチョウザメでも食べるつもりならば、ここの労務者は生活上、何ほどの支出も不要であろう。
貧しいローカル線の汽車で自由な弥次喜多道中
案内人は「社会施設」の見本として大いに誇示したものである。これらの社会主義的施設はまことに結構である。天然が油をこの土地に与えたから、ここの労務者はかかる恩恵に浸っていられる。
天然がロシアにかかる資源を与えたとしても、すべてのロシア人がかかる恩恵に浴しているわけではない。社会施設は結構なことである。だが問題はそれを行いえる力である。換言すれば、社会施設は消費であるから、生産なくして社会施設の完備は不可能なのである。日本としても、やはり国力増強そのものが第一であり、そのため国民の義務観念の養成がより強調されるべきである。
権利と義務、需要と供給、消費と生産、富力と社会施設、この関係を明確にせずして一方のみを希求しても益なきことであろう。
バクーからバトウム(黒海沿岸の港)までカウカズ高地を貫いて、直系五十ないし百センチの二本のパイプが通じている。革命前それが間断なく完成油、またはガソリンを黒海に運んだものであった。
私どもの訪問したときは、革命後十年も経っていたが一滴も運ばれていなかった。それは製油工場が破壊され、まだ回復されていなかったからである。現在は当然、面貌一変であろう。私どもの訪れたときは年産一千万トンと説明されたが、それは地中から出る量の謂(いわれ)であって、利用される油量は案外少量であったかも知れない。当時は石油を消費する動力機関が、ほとんど皆無に近かったのであった。
現在バクーの産油量は右の何倍であろうか。
この夜、私どもはエリヴァンに赴くべく、貧しいローカル線用の汽車に搭じた。日本でも私の現在住む小林市付近の汽車は、まことにお粗末なものであるが、ロシアも同様である。コーカサスは一種夢の地方であるが、事実はひどい山また山の中に点綴(てんてい)せる寒村の集団区域である。
コーカサスにおいて初めて我々は山を見るのであり、しかも高い険しい山をも見ることができる。ここの某山の標高は富士山よりも高いのである。
この年、私は帰朝して静岡に転任したのであるが、ソベートロシアから茶の苗を仕入れるための人が静岡へ来たことがある。前後を考え合わせ、本文執筆中の私は、ここコーカサスを興味をもって記述しつつあるのである。
彼らはここへ茶を移植し、ここを茶どころとせんとするのである。茶に対する計画経済である。今、私どものいるアゼルバイジャンははたして茶どころたりえるか。私は今晩の夜行で向かわんとするアルメニアこそ、その適地なりと今思い当った次第である。
私どもは三等車に乗った。このときは既に軟、硬のカテゴリアなどとはいわず、はっきり一、二、三等となっていた。このバクー─バトゥム間には一日一往復の二、三等客車が運行されたが、エリヴァン着を考慮し普通列車の便によったのであった。普通列車は三等のみである。ロシアの三等には板の棚が二段に設けられている。一種の硬床寝台というわけである。
この旅で私どもは初めてむき出しのムジーク(百姓)を見、彼らと話す機会を得、彼らから「ゆで卵」を貰ったりした。私どもはロシア政府が、何かスピオン(スパイ)でも私どもに付けるかと予想してみたが、そのような素振りもなく、バクーまでは多少客人扱いであったが、それから後はその空気もうすれ、今はまったく自由な弥次喜多道中の私どもである。
翌朝チフリスに着き、すぐにエリヴァン行きの汽車に乗り換えたが、その日の午後このアルメニアの首府に到着した。チフリス-エリヴァン間の風物はまったく東海のそれであり、汽車がトンネルによらず緩かな高原地帯を縫って進む光景もまた東海式であった。この灌木低く生い茂る気候温暖の場所こそソ連の茶どころだろう。あの計画がこの地に発展するならば、それこそ大量の紅茶が製出されるものと思われる。
エリヴァンに着いたのが午後三、四時であった。駅から町まで一キロメートルもあった。相当広いメーンストリートの上を野生に近い未改良の牛の群が、徐々に歩を運んでいずれかへ向って歩いている。路面には牛の産物が豊富に横たわっている。
人口一万もあろうか。後背地、果して如何であるか。当時鉄道はここまでであり、第一次大戦ではこの辺を中心としてロシア、トルコ両軍大いに戦ったと伝えられるが、この不完全なる鉄道一本で悠長なるロシア人による作戦は、さまで活発でなかったでもあろうかと想像された。現在、この鉄道はトルコを経てエルサレムへ通ずるのであり、一種の国際線でもある。今日では一、二等車も連結されているだろうか。
一泊で私どもは、バルト三国中の一とされたリトワニアの首府コヴノと、その雄を争う極貧、耐乏の都市エリヴァンを切り上げチフリスに去った。