久しぶりに食べたイナ(ボラ)の美味

チフリスはグルジヤ(ジョルジャ)の首府であり、スターリンの生地である。当時、既にスターリンの家として一区画を設定して名所となしていた。今は大変な聖地でもあろうか。

この地はコーカサス美人の産地と称されるが、私ども両人は残念ながら一人のそれらしい美女を見なかった。もちろん髪長く、眼黒く、一種の特色は認められ、ロシア人はそれをオリギナリノと言っている。それは「風変り」「珍しい」であり、紅毛碧眼に対しては確かに珍しいのであり、それが世界的美人型とされたゆえんではなかろうか。

ある日の午後五時頃、私どもは黒海沿岸の石油輸出港バトゥムに到着した。石油タンクが海岸に林立している。それにしてもこの港の不潔にして寂しきことよ。市民はあえぎあえぎ淋しく歩いている。仕事がないのだ。商売がないのだ。ただ生きているだけだ。これが革命後十年経てる時の姿だ。この頃が革命ロシア窮乏の最絶頂でもあったろうか。

道路上で籠に「イナ」を入れて売り歩く老人をみかけた。同行の秦(彦三郎、後の中将)は食欲をそそられたらしく、二十尾ばかり買い求め、新聞紙に包んでそれを持ち付近のホテルに投じた。このホテルも昔は相当格式張ったはずのものなのに、今はイナを携え持った客が最も妥当、というよりは良い客種であった。

秦はボーイに紙包のイナを渡し、すぐに塩焼にして出すべく命じたのであった。塩焼に関する説明に長時間を要した。ところがこの宿のコックが、かつて日露戦争の旅順の勇士であり、俘虜として松山に生活した経験があり、日本人がいわゆる焼きものの愛好者たることも承知しており、焼きものの製法も心得ていたのであった。

そのため、私どもの期待のイナの塩焼が大皿に盛られて卓上に供され、私どもは久方ぶりに日本料理(?)の美味に接したのであった。外国人は塩焼を料理と認めないであろう。しかし原始人の我らはそれを愛好する。

▲久しぶりに食べたイナ(ボラ)の美味 イメージ:AnEduard / PIXTA

夕食後二時間ほど休憩の後、私どもはセバストーポリ行きの汽船に乗った。大きさは三千トンぐらい、当時の黒海に浮かぶ女王であったのである。相当に古色蒼然たるオールドミスではあったが、私はこの船が十五年の昔から運行していることを聞くにつけ、私のウラジオ時代の一挿話を思い出したのであった。

それは当時、海軍N中佐のロシア懐旧談の一節である。彼がロシアに留学中ある冬の旅行を、今私たちが行いつつあるとほぼ同一のプログラムで行ったものらしかった。

彼はバトゥムより一汽船に乗った(それがこの船かと思われるのである)。南国であるから町には雪は見えないが、それでも冬であった。

船の食堂で豊かに食事をとった彼は、ワインに頬をほてらしながら甲板に出たところ、そこに彼は一名の立派なシューバーを纏える貴族または富豪の妻女なるらん若き婦人が荷物のあいだにうずくまっているを認めた。

彼がかかる寒いところに何故いるかと尋ねたところ、一等室の空室がなく、やむなくここにいると答える。二等、三等もここよりはよいはずだ。だがこの婦人のプライドは二、三等の庶民室に入るぐらいならば、ここに震えながらいたほうがよいというのであった。

そぞろに憐れを催したN氏は「おさしつかえなくば私の部屋へお出でなさい。ソファーもあります。貴女にベッドを提供し私はソファーを使用するでしょう」と招じたのであった。彼女は大変喜んだ。N氏は男子の儀礼としてトランクを持ってやり、彼女のあとに続いた。

両人は、夜十二時頃まで上と下で話を交わした。二、三時間もまどろんだか、N氏が眼を覚ますと彼女のベッドはいつしか、もぬけの殻であったのである。朝食後、甲板に出てみると、例の彼女が一人寂しく荷物とともにうずくまっていた。「昨晩はありがとうございました」と礼を述べるでもなく、「こんにちは」と挨拶もしない。

N氏は何か失礼なことを言って彼女が怒っているものかと察してペテルブルグに帰った。このことを友人たるロシア人に語ったところ、「さては君は大変な失礼をしたネ。美人としての彼女のプライドを土足にかけたよ」と言うのであった。このエピソードに国民的エチケットの、ある差異が認められる。

樋口季一郎が見たクリミア半島

フェオドシアを右岸に望みつつ、私どもの船は航行しつつある。フェオドシアはアイバゾフスキー画伯の久しく住み、かつ描いた小都市であり、黒海沿岸の一種の廃墟である。

私どもはクリミア半島のセバストーポリに着いた。ここは一八六六年、露土戦争でロシア軍が長期間、トルコ軍に包囲された土地である。私どもは某ホテルに投じ、早速イナの塩焼を注文した。何尾かと問う。まず「二十尾」と注文するとボーイは吃驚した。「そんなに食べられますか」「食べられるよ」「では適当に見つくろって持ってまいりましょう」ということになった。

三十分間の後、私どもの卓上に二皿に盛られて四尾の焼肴がのせられた。なるほど、今初めて理解された。「イナはボラであり、イナの親がボラであり、ボラの子どもがイナ」であった。いずれの国でもイナとボラを名称上区別するところがないはずであった。

二十尾の注文が四尾であったことは、適当なる彼らの「見つくろい」であった。私どもは目の下一尺五寸もあるイナの親であるボラを各々二尾ずつ平らげた。ボーイは別に他の食物の注文をもとめなかった。彼は私どもがいつもボラのみを食う動物とでも思ったであろう。

▲樋口季一郎が見たクリミア半島 イメージ:Elena Odareeva / PIXTA

セバストーポリは、黒海艦隊の根拠地であるから相当な設備が予想されたが大したものではなく、旅順要港の設備にほぼ近かった。私どもはここから四、五里ほど隔たったバラクラヴァへも歩を運び、サルベージ王の片岡弓八君を想起した。

私どもは「セ」市から陸路遠廻りして、黒海第一の商港オデッサを視察した。そこの寂れかたもひどいものであった。今はウクライナ穀物の輸出港として大発展を遂げているのであろう。私どもは更に北上してキエフに向った。キエフは、ドネーブル沿岸の美しい旧都であり、有名なカテードラル(大伽藍)がある。

ムソルグスキー作詞、作曲のオペラ「ボリス・ゴドノフ」はロシア歌劇中最大の傑作と称されるが、そのプロローグに出る僧院とは、このキエフのカテードラルなりと私は信じていたのであるが、大田黒氏著『歌劇大観』にはその寺院はモスクワに近いノウォ・ディエウィッチの僧院と書かれてある。「ノ・デ」寺院はいかなる僧院かは知らぬが、私をしてかくまで信じこませるほど神秘性をもつロシアの僧院が、このキエフにあるのであった。

▲聖ソフィア大聖堂 写真:TE28 / PIXTA

キエフはポーランドと随分因縁を持ち、ある時代にはポーランドの支配を受けたこともある。また第一次大戦でも第二次大戦でも、いつも真先にドイツ軍の支配を受けるのであった。ウクライナの反大ロシア主義がここにあるとも言いえるであろう。

私どもはこの都市で、またもロシアの新オペラ「クラスヌイ・マーク」を見せられた。モスクワのそれに比し、音楽も俳優も舞台装置、いずれも大変見劣りしたことにかえって興味を感じた。ウクライナ民族主義は当然ここを中心として発達する。それゆえ、大ロシア中心主義者は殊更にキエフを軽視し、ハリコフを重視する。