地べたに座って見るのが東北プロレス
みんなが座る席までいくと、すでに全員の注文したものが来ていた。
「おまえ、遅いよ! いつまでトイレにいってんだよ」
宇佐川さんにどやされながら、とりあえず早く出てくるものということでバニラアイスを頼んだ。万念先輩が「アンドレ、ちゃんと食っておかないとあとでバテるよ」と助言してくれたが、ぼくは「いや、ちょっとお腹を壊してて…」とその場しのぎのウソをついた。
「あー、日向も井之上も練習がキツいのとストレスで腹壊したことあったよな」
宇佐川さんがそう振ると、2人の先輩練習生はチャーハンを口へかっこみながら無言でうなずいた。2人は日向さんと井之上さんというのか。「おまえら、飯食うのに必死で返事もできないのかよ?」と苦笑するのは、万念先輩同様デビューしている菅本先輩だ。
宇佐川さん、万念先輩、日向先輩、井之上先輩、菅本先輩にぼくを加えた6人が、通称・バン組となる。たまに、バス組の雑用をする時はデビュー済みの2人のどちらかが向こうへ乗ることもある。
この日の会場は古い体育館ではなく近代的なスポーツセンターだけあって、ぼくが見てきた中でも一番立派な建物で広かった。だからブルーシートではなく、今日ぐらいはイスを並べた会場になるだろうと思っていたら…。
変わらなかった。だだっ広いフロアへ、いつもと同じように4つのシートが敷かれるだけだった。ぼくは万念先輩に聞いてみた。
「万念先輩、実はぼく、楢葉で初めて生のプロレスを見たんですけど、イスがないことにまずビックリしたんです。最初は小さい体育館だからと思ったけど、今日みたいな広い会場でも同じじゃないですか。どうして東北プロレスはイスを並べないんですか?」
「うーん、俺が入る前からずっとそうだったみたいだから、はっきりとした理由はわからないんだけど…まず、会場にイスがあるところと、ないところがあるんだよ。たとえあっても、借り賃がかかったりする。ない場合は、リング屋さんが持っているけど、それも借り賃がかかるわけで。要するに経費削減だよ」
「でも最初は、お客さんから『見えにくい』とか苦情が出なかったんでしょうか」
「そんなに見づらくはないし、地べたに座って見るのが東北プロレスだっていうイメージがついたら、それが普通になるし。何よりも全席自由だから、早く並んだ人が前の方で見られるのがお客さんにとっていいんじゃないかな」
そういえば、開場の2時間以上も前から30人ほどのお客さんがすでに列を作っていた。
待っている間も、口々にプロレスの話で盛り上がり、中にはマスクを被った子どもも…西日が直撃しているのに、誰もバテた顔をしていないのだ。
開場と同時に、ワーッとアリーナ内へ走ってきて四方の最前を確保する。場内は土足禁止なので、備えつけのスリッパを履いているか、あるいは裸足だ。
おそらくイスよりも地べた座りの方が田舎の風景には合っていると、タスケさんは思ったのだろう。ただ…セコンドの身としては、ちょっとやりづらいっていうのが正直なところだった。
今日も、それをやってしまった。場外乱闘中は、レスラーとお客さんを分ける必要がある。でも、人が押し寄せる中で選手が大暴れする状況だと、周りのすべてが見えているわけではない。
そういう時、マスク姿で観戦しているお客さんを選手と間違えたり、逆にマスクマンの先輩へ「どいてどいて!」と言って押しのけたりしてしまう。困ったことに、タスケさんの覆面を被っている人が一番多い。
小さい子なら見分けがつくけれど、高校生ぐらいのファンになると間違える可能性が高まる。「マスクを被っていても、服が違うだろ」と言われるだろうが、こっちは無我夢中だから顔しかほとんど目に入らない。
さすがに本人をお客さんと間違えることはないと思っていたが、この日はマスクだけでなく黒の忍者コスチュームまで着ているお兄さんから「見えないよー!」と言われ、振り向いた瞬間に「すいません、タスケさん!」と謝ってしまった。笑いに包まれたのはその一角だけだったが、これは恥ずかしかった。