政治家よりコメディアンのほうが上だと思ってる

11年ぶりとなる長編小説となるが、前作『文明の子』、そして小説デビュー作となる『マボロシの鳥』。これらの作品以前にも、太田は『小説新潮』の1997年12月号で『終末のコメディ』という作品を書いている。原因不明の伝染病が流行した世界で、テレビのなかのコメディアンがボケ続け、視聴者に外出することを呼びかけるSF作品だ。今回、インタビュアーは実家から取り寄せて太田に見てもらった。

「『終末のコメディ』、よく手元にあったね(笑)。1997年……ずいぶん前だよな。でも、このときにもう伝染病の話を書いてるんだね、コロナとリンクしてるのか……新潮社……この前、裁判したからな……ははははは!」

▲『小説新潮』を見せると大きく笑ってくれた

なぜ見せたかというと、この『終末のコメディ』から『笑って人類!』に至るまで、爆笑問題の太田光が芸人としてこうありたい、という想いが作品に脈々と受け継がれていると感じたからだ。

「この作品も一国の総理である富士見が主人公だけど、その富士見に“小さい頃はコメディアンになりたかった”って言わせているのは、暗に政治家よりコメディアンのほうが上だって想いが俺の中にあるからなんですよ。今の自分は、我ながら憧れられるようなコメディアンにはなってないな、という気持ちはあるけど(笑)」

『笑って人類!』には印象的なセリフが多く出てくる。そのなかでも心を奪われたのは「政治は未来の子供達のためにある」と富士見が語るシーンだ。このセリフに、ハマコーこと、浜田幸一氏が1979年に自民党両院議員総会を阻止するため反主流派が築いたバリケードを撤去しながら叫んだ言葉「かわいい子どもたちの時代のために、自民党があるということを忘れるな!」を思い出した。

「まさにそれです。ハマコーさんと俺はずいぶん討論して、たくさん怒られましたけど、あの人の根っこの部分、ああいう言葉をあの場で言える人間の部分、すごく好きでしたね。だからこそ出てきた言葉だと思います」

天才があんなにツラいなら凡人でいい

この作品には、言葉の力を信じるということが根底に流れている。他方、その作品を書いた太田光という人間は、表に出る仕事のなかでも指折りで、言葉の暴力を受けている人だと感じる。ネット上で「つまらない」「消えろ」「死ね」という言葉を日常的に受けている人が、そこまで言葉の力を信じているのはなぜなのだろうか。

「うーん、信じるっていうのかな……。でもね、よく言うんですけど、漫才をやってて本当にウケないときは、客席に笑気ガスでも出してもらって、俺たちが何を言っても笑うみたいな状態にしたいときはあるんですよ。でもやっぱ、“それじゃあ、意味ねえよな”って。相手にわからせたいときにぶん殴る、それでわかることもあるんだけど、俺としてはそうしたくない」

「芸で笑わせる、ということですよね?」と聞いたら、「そうですね」と強くうなずいた。それでは、そんな太田が一番心を動かされた言葉はなんなのだろうか。それこそ、太田が悩んでいたときに救ってくれた言葉を聞いてみたかった。

「なんだろうな……たくさんあるんですけど、(立川)談志師匠から、“何も考えなくていい、囃(はや)されているうちは踊れ”って言われたのは心に残ってますね。30代のときだったかな、“40歳までは何も考えるな”って言われて、そのあとそろそろ40歳になるってときに“師匠、僕、そろそろ40歳になるんですけど……”って言ったら、談志師匠が“俺、40歳って言ったか? じゃあそれ、50歳にしていいよ”って(笑)。あの言葉にはだいぶ救われました」

『笑う超人』という作品で落語を企画・演出、ラジオ番組『立川談志・太田光 今夜はふたりで』では、ナンセンスな談志の言葉に対し、見事に答える太田に全幅の信頼を寄せていた立川談志。もちろん太田も談志に対しては、尊敬という言葉では軽いほど、強い想いを寄せていた。そんな談志は晩年、よく周りに「ツラい」「死にたい」と口にしており、太田もそれを間近で聞いていたという。

「晩年の談志師匠を見ていて、天才があんなにツラいなら俺は凡人でいいや、とさえ思いましたね。だって、いい落語をしたときのほうが落ち込むんですよ? 落語がうまくいかなかったときに落ち込むのはわかるんだけどさ。

独演会の良い評判を聞いたときに良かれと思って“師匠、この前の独演会の『芝浜』すごかったらしいじゃないですか”って伝えるんですよ。そしたら、談志師匠は“神はなぜ、あんなことを俺にさせたのか……”とか言い出すんです。俺は内心“いいじゃねえか、ウケたんだから”って思ってましたけど(笑)。でも、あの境地に達すると、人間ってこんなに苦悩するんだなって思いました」

立川談志の有名な言葉で、“落語とは人間の業の肯定である”というものがある。やってはいけないことをついやってしまう、そんな人間の愚かさを描くことこそが落語である、と。さらに、太田が大きく影響を受けたビートたけしも、映画化された小説『浅草キッド』で、芸人の裏に見え隠れする悲哀を描いている。太田は、この二人から大きく影響を受けながら、自身は別の道をあえて進んでいるようにも見える。

「違う道かどうかはわからないけど、俺と、田中もそうなんだけど、楽天的なんですよね、爆笑問題は二人とも」

高校時代の太田が、感動という感情をなくすほど悩み、味覚障害になるほど落ち込んでいたという話を知る身としては、楽天的というのは、にわかに信じがたい言葉ではあった。

「もともとはそうじゃなかった。でも、たぶん途中でいろいろな目にあって、こういう考え方になったのかもしれない。さっきの“言葉で救われた”ってことで言うと、植木等さんが歌う『だまって俺について来い』にも元気づけられるんですよね。“そのうちなんとかなるだろう”って歌詞は、自分にとって指針のような言葉です」

個人的には、太田の大きく周りを明るくするような笑い声からは、植木等の影響を感じる。その植木も、先ほど話に出た森繁久彌も立川談志とも共演して、彼らから「いつも見てるよ」などの言葉をもらっているのは、爆笑問題が最後の世代ではないだろうか。そう問うと「そうでしょうね」と太田は答えた。