埋立地にあった岡場所

東京都中央区新川一丁目に、かつて「蒟蒻島(こんにゃくじま)」と呼ばれる岡場所があった。

蒟蒻島は俗称で、正式な名称は霊岸橋際埋立地である。隅田川の河口の海を埋め立てて、明和二年(1765年)に造成された土地だった。

埋立地なので地面がやわらかく、蒟蒻のようにふわふわしているという、冗談半分の命名であろう。

土地が造成されても、すぐには本格的な建物は建てられない。そこで、「地面を固めるため」という名目で、簡易な建物を建てるのが許可された。これに応じて、次々と茶屋や見世物小屋ができ、歓楽街となった。

安永二年(1773年)の夏ころから、私娼を置いた女郎屋が建ち並び、岡場所「蒟蒻島」が形成された。

『親子草』[寛政九年/1797年]は、蒟蒻島のにぎわいについて、次のように記している。

夏は夕涼みの人々が出て、にぎわった。やがて、売女屋や引手茶屋が建ち並び、昼間は歩くのもやっとという混雑ぶりだったが、寛政三年ころより徐々にさびれ、寛政七年、売女屋はすべて取り払いになった。

売女屋は女郎屋のこと。

図1『寸南破良意』(南鐐堂著、安永四年)、国会図書館蔵

引手茶屋は、客を女郎屋に案内する店である。図1は、引手茶屋の店先で、茶屋女が居眠りをしている。柱にかかった掛行灯(かけあんどん)には、

「おやすみところ」
「ひきてや」

と書かれている。

寛政七年(1795年)に取り払いになったとあるが、寛政五年に老中松平定信が失脚し、すでに寛政の改革は終了していた。改革の終了を見て、それまで禁止されていた岡場所が復活を始めていたころである。

蒟蒻島の岡場所は、寛政の改革終了後に取り払いになったわけであり、理由がよくわからない。当初、仮設店舗が許可されたのは、地面が固まるまでという条件付きだった。

期限がきて、女郎屋や引手茶屋などはすべて取り払い、江戸の市街地に組み込まれていったということだろうか。

なお、『三都花街めぐり』[松川二郎:著 誠文堂 昭和7年]に、京橋区にあった遊廓「霊岸島」について――

霊岸島のことを今日でも、「蒟蒻島」と呼んでいる人があるが、それは元此の一廓が埋立地であって……

――と記している。

江戸時代に取り払われた岡場所蒟蒻島に、近代になって遊廓霊岸島ができたことになろうか。

『江戸の男の歓楽街』は次回5/13(水)更新予定です、お楽しみに!