じつはこのコラム、この形式で連載されるのはあと2回になります。サッカー観戦コラムと言いつつ、本当に好き勝手、自由に書かせていただいていましたが、来月からは連載の方式も変化しまして、より「大学サッカー」というテーマを深掘りしていくような内容になっていきます。

まだ連載を続けさせていただけるということで、ありがたいとは思いつつ、このコラムを始めるにあたって意識していたことがありました。それは『ワールドカップを見に行ったときの話は、ワールドカップ前まで書かない』ということ。

断片的には書いているんですが、W杯の観戦記のようなものは、あえてW杯が近づくまで温存していたんですね。なので、もしまたそんなことを書く機会があれば、ぜひ皆さまに読んでいただけたら、また、「自分もW杯を見に行きたい!」と感じでいただけたらなぁ、なんて思っております。

さて、そんなわけで今回は、僕のサッカー観戦人生のターニングポイントとなった、初めての海外、初めての一人旅であるブラジルに旅立ったときの話。そして、ひとまずの区切りとなる来週は、2022カタールW杯で見た最高の景色の話をしようかな、と思います。僕のW杯観戦記の第1話と、現段階での一番のクライマックスの話ですね。

一生に一度ならブラジル開催だろ!

2011年ごろでしょうか。僕が芸人を目指して大学に通いながら、お笑いの養成所に通い始めた頃、

「あれ? このまま芸人になって就職しなかったら、W杯とかも見に行けるんじゃね?」

と思い立ち、貯金を始めました。当時、僕は芸人と言いつつ実家暮らしだったので、苦ではなく、W杯までの3年間で60万円が貯まりました。いや、最初は苦しかったか。

大学の授業に加えて、サッカー部の練習が週5、養成所、その授業に向けたネタ作り、そのあいだに夜勤をしてお金を貯めていたので、部室を仮眠室として重宝させてもらいました。

授業→部活→夜勤→寝ないで1限→部室で5時間睡眠→部活というスケジュールは、これまでの人生のなかでも、かなり過酷だったと記憶しています。

その後、あまりにも両立が不可能で、大学を卒業できなくなりそうだったため、15年続けてきたサッカーをやめて、大学とお笑いと夜勤の3本柱で生活をしてお金を貯めました。

これが、僕と競技サッカーの別れです。まあ、他にもいろいろ思うところはあったのですが……。なぜ、そこまでして急いでお金を貯めていたのか。それには理由がありました。

W杯に行くのなんて一生に一度だ。

「だったら、絶対にブラジル開催だろ!!」

……そうです。一生に一度ならサッカー王国であり、国をあげてのサッカーの熱量がレベチのブラジル開催を逃してはいけない、と思ったのです。

さて、時は流れて2014年。テレビでは、W杯前ということで、ブラジルに関する報道もたくさん流れていました。日本代表が初戦をおこなう「レシフェ」という街は、神戸市とほぼ同じ人口で、強盗発生率が神戸市の508倍だそうです……危険すぎるだろ。

まぁ真偽のほどは定かではありませんが、当時の事務所の偉い人には……

「サッカー芸人? 強豪チーム出身じゃないと無理だよ? W杯現地観戦? 弱いね」

と冷たく言われたり(もう今はそんなイヤな人はいない。そして、あれから10年。サッカー芸人として『アメトーーク!』はじめ、たくさんの番組に出れてます!!)、家族には「命を大事に!」という、ドラクエの指示みたいに強めに止められたりしましたが、僕の中にはワクワクしかありませんでした。

見よう見まねで試合のチケットや航空券を取り、Facebookの現地観戦者グループで、チケットを譲ってもらったり、地図帳と睨めっこして、日本戦の合間に行けそうな会場を探ったりしました。いま思うと法外な価格ですが、ドミトリーを1泊1万円弱で予約したのも良い思い出です(たぶん、爆裂に治安が悪いから宿も高い)。

そのあいだも、日本代表はコンフェデ杯で躍動し、僕にブラジルの地で番狂せを起こす姿を夢見させてくれました。

そして、バックパックにパンパンに荷物を詰め、両替しようとしたら、レアル(ブラジル紙幣)が細かい額しかないと空港で言われて、日本円で500円くらいの札束を靴や二重に履いたズボンの内側のポケット(23歳にもなってどうかと思うけど、お母さんにチャックを縫ってもらった)などに散らばるように隠して、出発しました。