世界と日本のありとあらゆる奇食珍食を食べつくしてきた小泉武夫教授。自らを“発酵仮面”と称するほど、発酵食品の個性的な「におい」にも惹かれている。日本では乳製品の歴史が浅いためにあまり種類が豊富ではないが、最近では日本でも好きな人が増えている「チーズ」。世界中の発酵食品に詳しい小泉武夫教授に、記憶に残る「チーズ」について語ってもらった。
※本記事は、小泉武夫:著『くさい食べもの大全』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。
食べる前、においを嗅ぐのは本能的な行動
くさいものを知ることは、人間力を身につけるうえでも非常に重要でもある。そのことを思い知ったのは、十数年前、NHKの『課外授業 ようこそ先輩』という番組で、郷里の福島県小野町の母校を訪ね、小学生に“くさい体験授業”を行ったときだった。その日、私が持参したのは教科書ではなく、シュール・ストレミングと腐ったサバ(鯖)である。
腐ったサバが猛烈にくさいのは想像がつくだろう。しかし、シュール・ストレミングのにおいも負けていない。シュール・ストレミングは、スウェーデン特産の塩漬けしたニシンの缶詰で、 強烈な発酵臭がする。くさいという点ではどちらも同じだ。
しかし、決定的に異なっているのは、腐ったサバは、私たちの生命を脅かす危険な食べものであるのに対し、発酵食品のシュール・ストレミングは安全な食べものだということである。
子どもたちに、それぞれの食品のにおいを嗅がせたところ、いずれも、「くさい、くさい」と大騒ぎになったが、「どちらかを必ず食べなければいけないとしたら、どっちを選ぶ?」という究極の問いかけに、全員がシュール・ストレミングを選んだのである。
つまり、人間は生まれながら、自分にとって不要なにおいと必要なにおいを嗅ぎ分ける力をもっている。どのような人でも、初めて口にするものは必ずにおいを嗅ぐが、これは本能的な行動にほかならない。くさいものを知ることは、人としてたくましく生きるために欠かせない教養なのだ。
砂漠で生まれたチーズ
チーズには、くさいものがいっぱいある。妖艶なにおいのチーズも多く、どれも私の大好物である。このすばらしい食品は、次のような偶然から生まれたと伝えられている。
古代アラビアの商人たちがラクダに乗って暑い砂漠の中を旅していたとき、のどを潤おそうと手づくりの水筒を取り出した。
この水筒はヒツジの胃袋を乾燥させたもので、出発前、そこにヤギの乳を入れてきたのだが、いざヤギの乳を飲もうとすると、乳ではなく、白い塊と透明な液体が出てきた。アラビア商人たちは驚いたが、なめてみたらとてもおいしくて、ここからチーズづくりが始まったといわれている。
なぜ、水筒に入れたヤギの乳がチーズに変化したかというと、ラクダの上で水筒がガチャガチャと揺らされるうちに、乳の中のたんぱく質と脂肪が水分と分離し、そこにヒツジの胃袋に残っていた、たんぱく質を固める酵素〔レンネット〕と乳酸菌が作用して、ヤギの乳の発酵が促されるとともに、そのたんぱく質が固まって、白い塊〔ナチュラルチーズ〕と、透明な液体〔ホエイ〕が得られたのである。
現在のチーズも同じ過程でつくられる。最終的にホエイをきれいに取り除き、塩を加えて熟成させればナチュラルチーズのできあがりである。このナチュラルチーズに熱を加えて発酵を止めたものがプロセスチーズである。