破れて天晴! アニマル浜口は鶴田を称賛

2代目タイガーマスクとして、“虎ハンター”小林との抗争がスタートした三沢光晴は、「簡単に言えば“攻め”と“受け”の違いだよね。向こうは“やったもん勝ち!”みたいなところがあったじゃん。でも感じたのは、燃料切れは早かったよね。向こうが最初ガンガン来ても、攻められても、それを凌ぎ切れば意外と勝機が多かったなっていうのはあるよね。もちろん、こっちはどう来られたにしても、凌げる自信を持っていたし。ただ俺自身、ちょっと体重が増えてきたっていう微妙な時期で、身体も今ほど大きくなかったから、受けるダメージは大きかったかもしれないけどね」と後年になって、ジャパンとの対抗戦について語っていた。

当時はファンの間に「受けのプロレス」という見方が浸透していなかったために、どうしても「一方的に攻めるジャパン、防戦一方の全日本」というイメージが付いてしまったが、そんな中でもジャパンの選手がコントロールできなかったのが、身体の大きさとナチュラルなパワー、そして無尽蔵のスタミナを誇る鶴田だ。

「外国人レスラーとの試合は、倒れた時にすぐ起き上がらなくても攻撃してこない。でもジャパンの選手の場合は倒れたらすぐに攻撃してくるから、すぐに起き上がって反撃するところがないと試合が成立しないんだよ。鶴田さんはジャパンの選手よりも背が高いから、バンバン技を食らっても、すぐに反撃に転じる時の見栄えとか迫力がジャパンの選手の攻撃を上回っていたよね。鶴田さんがあの大きな身体でそういう動きをやると“回復力が凄い!”と。それに背の高い人間が上から攻めてきたら、低い人間は頭を下げざるを得ないから、それもファンには凄く見えたんだろうね。あの対抗戦から徐々に鶴田さんの評価が変わっていったと思うんだよ」という渕の分析は鋭い。どんなにガンガン攻めても涼しい顔で起きて、ことさら余裕を見せる鶴田にジャパンの選手は辟易したに違いない。

86年3月13日に日本武道館で実現した全日本VSジャパンのシングル6VS6全面対抗戦で、鶴田に敗れて「負けたーっ!」と絶叫したアニマル浜口は、後年になって全日本及び鶴田について聞かれて、こう答えている。

▲敗れた浜口の潔さもまた、鶴田の強さを際立たせた

「国際プロレス時代にも全日本と対抗戦をやっていましたけど、3年ぶりに全日本に上がって、選手が大きいのに改めて驚かされましたね。馬場さんはもちろん、鶴田さん、源ちゃん(天龍源一郎)、みんな大きい。僕のような小粒なレスラーにとっては、相手が大きいというのは、もうどうしようもないところがある。鶴田さんは大きい上にスタミナもあり、打たれ強く頑丈で、実によく整ったレスラーでした」

今こそ“最強”ジャンボ鶴田を解き明かそう! 』は次回5/27()更新予定です、お楽しみに。

 

プロフィール
 
ジャンボ鶴田(鶴田友美)
1951年3月25日、山梨県東山梨郡牧丘町生まれ。
日川高等学校時代にはバスケットボール部で活躍し、インターハイに出場。69年4月に中央大学法学部政治学科に入学してレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級代表として出場。同年10月31日に全日本プロレスに入団した。73年3月24日にテキサス州アマリロでデビューし、ジャイアント馬場の後継者として躍進。インターナショナルのシングル、タッグ、UNヘビー級、日本人初のAWA世界ヘビー級、初代三冠ヘビー級、初代世界タッグ王者に君臨している。87年~92年には天龍源一郎、三沢光晴らの超世代軍と抗争を展開して一時代を築いた。92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退き、筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで教授レスラーに。99年3月6日に引退してオレゴン州のポートランド州立大学の客員教授に就任したが、2000年5月13日午後4時、フィリピン・マニラにおける肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショック(大量出血)により急逝。49歳の若さでこの世を去るも、“最強王者”としてプロレスファンの記憶の中で生き続けている。