中国文化をよりよく吸収した日本文化
日本列島では1万年まえあたりから、狩猟採集社会のもとで縄文土器という生命力あふれる土器が焼かれていたが、やがて中国江南地方から伝わった稲作農民の国になり、7世紀から仏教伝来とともに高度な中国文明が流入した。
その後も、中国文明の影響は大きいが、島国であることから交流は断続的であり、仏教が常に支配的であり続けた。これも唐や宋の時代の中国文化が維持されたり、独自の文化が発展したりする背景となった。
中国でも3世紀から9世紀までは、仏教文化が支配的だったが、そのころのものは日本でのほうがよく継承されている。とくに奈良県は、唐文明の世界が奇跡的に残っている。
建築をはじめ魅力的な仏像や仏具が多くあり『百済観音』(7世紀/木彫りで製作は日本)、『興福寺の阿修羅像』(乾漆/8世紀)、法隆寺、薬師寺、東大寺、唐招提寺の仏像群が著名である。正倉院には、聖武天皇夫妻の愛用品がよく整理され、奇跡的に保存されている。
奈良から遷都された京都の東寺には、インド的な密教の仏像群があるし、滋賀県の渡岸寺(どうがんじ)観音堂の『十一面観音像』(9世紀)は、仏像のなかで最高のもののひとつだ。1200年前後の奈良では、運慶らが東大寺や興福寺のために、より写実性の高い仏像を製作した。
絵画は仏教絵画のほか大和絵という独自の世界があり『源氏物語絵巻』はよく知られる。肖像画としてアンドレ・マルローが激賞した『伝平重盛像』などである。15世紀には中国から水墨画が伝えられ、雪舟は同時代のアジアで最大の画家のひとりだった。
西洋文化も入った16世紀には、豪華な桃山文化が栄えて『洛中洛外図屏風』『唐獅子図』などの狩野永徳や『松林図屏風』の長谷川等伯といった巨匠が登場した。
さらに市民階級の趣向により発展して、琳派と呼ばれるエレガントな色彩に移行して、尾形光琳の『燕子花図(かきつばたず)』や俵屋宗達の『風神雷神図』などが出た。
19世紀初頭には、江戸で浮世絵といわれる版画が流行し『富嶽三十六景』で知られる葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽らが登場して、フィンセント・ファン・ゴッホや印象派の画家たちにも影響を与えた。
工芸も発展したが、陶磁器は17世紀に『色絵藤花文茶壺』の野々村仁清のような巨匠が登場し、朝鮮から磁器の技法を輸入した九州の有田では、清初における景徳鎮の衰退の間隙に、カラフルな輸出用の「古伊万里」が焼かれたが、やがてヨーロッパでドイツのマイセンやフランスのセーブルで、豪華な陶磁器が焼かれるきっかけになった。また鎧兜や日本刀といった武器の美しさも高く評価されている。
※本記事は、八幡和郎:著『365日でわかる世界史』(清談社Publico:刊)より一部を抜粋編集したものです。