“地味な存在”も努力の積み重ねがあってこそ

ここで派手な人、地味な人、それぞれの気持ちを考えてみましょう。

おそらく派手な人は、「派手でありたい」と思って努力をして、運にも恵まれてその努力が実ったことで、派手な存在になれたというのが大半だと思います。

一方、地味な人はどうでしょうか。こちらはいろいろなパターンがあるように思います。できれば派手な存在でありたいと望みながら、地味な存在に甘んじている場合もあるでしょう。

それはそれでしかたありません。世の中いつもいつも上手くいくことばかりではありませんから。ですが、地道にやっていれば、いつかチャンスがめぐってくるかもしれないので、そのときはぜひそれをつかんで、望みどおりの自分になってほしいと思います。

あるいは「派手な存在になりたい」と、漠然とした願望を抱きながら、その実、そのための努力はあまりしていないというケースもあると思います。怠けているだけの場合もあるでしょうが、そうではなく、努力できない深刻な理由があってのことかもしれません。

けっして恥じることはありませんが、ここまでのケースは、望んでいない境遇にいるという点で「地味であること」を残念だと感じる理由があります。

けれども、地味な人が地味な存在でいる理由は、そういった「派手を望んでいる」場合に限らないと思います。地味であることをみずから望み、地道な努力の積み重ねで、願いどおり地味な存在になれた場合だってあるはずだからです。

その動機にもいろいろあるでしょう。「目立つのが嫌い」という奥ゆかしい性格がそうさせることもあれば、目立たないところで黙々と働く「縁の下の力持ち」でありたい人もいると思います。

個人プレーよりもチームプレーが好きで、自分を犠牲にして全体を調整するタイプの人もいますし、誰も好んではやらないけれど、誰かがやらなければならない仕事をコツコツと、たとえ誰からも評価されなくてもやりつづけている人だっているのです。

▲“地味な存在”も努力の積み重ねがあってこそ イメージ:PIXTA

そこで、僕が一番に強調したいと思うのは、このように「みずから進んで地味な存在であろうとするのは尊い」ということ。「地道な努力の積み重ねによって、地味な仕事を黙々とやるのは素晴らしい」ということです。

それは、光り輝いているスターたちと比べても、なにひとつ劣るものではありません。別に自分がそうだというわけではないけれど「地味のどこが悪い?」と問いたいですね。