実家をなかなか出れずとも、こだわり続けた俳優道
小手さんが40歳を超えても、こだわり続けた「俳優」という職業。その道を志したきっかけは、高校時代にまでさかのぼる。
高校ではあらゆる部活に「助っ人」として参加していた小手さん。コンピューター研究同好会を根城に、山岳部、バスケ部、コーラス部での低音パート、生徒会にも顔を出した。そんな小手さんに演劇部からもオファーがあった。「このままでは文化祭の出し物ができない」と。「演劇の“え”も知らない状態でしたが、やってみたら目からウロコというのか、予想外に楽しかった」という。
折しも時代は「小劇場ブーム」。野田秀樹さんの「夢の遊眠社」、鴻上尚史さんの「第三舞台」をはじめ、劇団がいくつもあった。高校の演劇部には、大学の演劇サークルから「高校生招待枠」のダイレクトメールがたくさん届いた。次第に大学演劇にも触れるようになった。
「そのなかで一番熱量にやられたのが、当時、早稲田大学の演劇倶楽部に所属していた『カムカムミニキーナ』という、八嶋智人さんらがいる団体。キャパシティが100人以下の地下のハコ(劇場)で、どこに向かっているかわからないエネルギーが充満していました」
それを観たとき、早稲田で演劇をやると決めた。大学進学後は、すぐ演劇倶楽部の門を叩いた。「そこで基礎を学んで、今に至るって感じです」。小手さんの話は「今に至る」のひとことで、その後の20年以上が省略された。それだけ夢中だったということだろう。卒業後も就職はしなかった。劇団を立ち上げ、脚本を書き、演出し、出演した。稼いだ金はほぼすべて劇団につぎ込んだ。結果、30歳をすぎても実家を出られなかった。
「これからどうすんだっていう親のプレッシャーがあって、経済的自立とか、付き合っていた彼女(現在の妻)との結婚とか、劇団運営の具体的展望とか、周囲からのいろんな『どうすんだ』を聞きながらも、なかなか建設的に動けなかった。夏休みの宿題を計画的に進められない子供のような生き方を、その後もずっとしてきてしまったんですね」