中国ウォッチャーの第一人者・福島香織氏は語る「香港の若者たちが雨風を避けるための雨傘で、警官隊から打ち放たれる催涙ガスに抵抗している様子を見て、いてもたってもいられなくなった」と。“香港の中国化”を恐ろしいスピードで、強引に進めようとする習近平政権のやり方に納得のいかない若者たち。

SARS危機に“慎重な”香港対応をした胡錦涛政権

2003年に香港を襲ったSARSの危機で目覚めた香港人の中国共産党への不信は、その後の「国家安全条例」に抵抗する51万人デモで一気に爆発しました。

国家安全条例とは、香港基本法(香港にとっての憲法)23条で、いずれ制定すべきであると決められている政権転覆や、国家分裂などの犯罪を取り締まる法律です。

この法律は、2019年に勃発した香港デモの切っ掛けとなった「逃亡犯条例改正」どころではなく、香港の司法の独立を完全に否定し、香港の核心的価値である法治を否定するものでした。香港市民たちはこの法律を阻止すべく立ち上がったのです。

この51万人デモは、時の胡錦涛政権を脅えさせました。このとき中国共産党は、香港人のデモの要求に従って「国家安全条例」を棚上げにしたのでした。習近平政権と違って胡錦涛(こきんとう)政権は慎重でした。

▲胡錦涛 出典:ウィキメディア・コモンズ

国際金融都市・香港で大規模デモが続けば、胡錦涛政権がひっくり返ることもありうる、そのような危機感をもって胡錦涛政権がデモに対応したことを、当時、共産党官僚筋から解説されました。

中国との経済一体化で取り込まれていった香港人

胡錦涛政権にとって敵は香港市民ではなく、江沢民(こうたくみん)による院政でした。江沢民の懐刀で謀略にたけた当時の国家副主席・曾慶紅(そうけいこう)が、胡錦涛から政治の実権を奪うのではないかと恐れていました。

香港は、その曾慶紅の仕切るインテリジェンスが暗躍している地域でもありましたから、胡錦涛も慎重にならざるをえなかったのです。

また、胡錦涛は香港市民が欲している民主主義の証でもある行政長官の普通選挙についても、2007年以降に検討するという姿勢を見せました。これはもちろん、香港人を騙すフェイクの姿勢であったと思いますが、少なくとも、香港人の怒りはここでいったんは収まったのです。

頭のいい胡錦涛政権はその後、国家安全条例については言及しなくなり、その代わり「中国と香港間の経済緊密化協定(CEPA)」を結び、香港と中国の経済一体化を進めます。これにより香港経済は、中国の経済成長の恩恵に最も浴することとなりました。

香港の世論は一気に中国寄りになり、香港人はあれほど嫌悪していた普通話を、ビジネスのためと割り切って積極的に使うようになりました。

2004年の立法会選挙は、親中派が過半数を取り、民主派の衰退がはっきりし、2008年の立法会選挙では、かろうじて3分の1の議席を守りましたが「民主派は時代遅れ」と、香港世論は思うようになっていました。

経済を取り込まれると、香港のメディアも中国系スポンサーの顔色をうかがうようになり、中国批判をしなくなっていきました。私の記憶では、この頃の香港人のアイデンティティは「香港人であり、中国人である」という意識が多数派であったと思います。