お茶の間に彗星のように現れ、日本語を巧みに操り、物怖じせずに意見をというアフリカ人男性――と言って、誰が思い浮かぶだろうか。そう、TV番組『ここがヘンだよ日本人』で一躍有名になったゾマホン・ルフィン氏だ。

母国ベナンに、日本語学校と小学校を作ったことを知っている人も多いかもしれないが、その後も歩みを止めることなく、ベナン共和国大統領特別顧問に、駐日ベナン共和国大使といった輝かしい経歴を持つ。現在もベナンと日本の交流活性化のために、日々身を粉にして働いている。日本に来て早27年が経つというゾマホンさんの単独インタビューに成功した。

アルバイトの労災で日本の大学に入学しました

日本への興味を持ったのは幼い頃だが、実際問題、出身地であるベナンのような途上国には「日本に行くより、天国の方が行きやすい」という言葉があるほど、経済的にも物理的そして精神的にも、両国はとてもかけ離れた存在だった。ゾマホンさんも例外ではなく、来日できたのは本当に偶然の繋がりだったという。

「ベナンでは、生きている間にいいことをすれば天国に行けますが、どんなに頑張っても、貧乏だと日本に行くことはできないんです。保証人も必要でした。けれども、中国の北京で孔子教育思想を勉強するため、奨学金をもらいながら博士課程を受けていた時に、クラスメイトだった日本人の高橋さんが保証人になってくれて。それで、日本に留学生として平成6年にやってまいりました」

長年の希望だった日本への切符を、運よく手にして喜んだのもつかの間、今度は学びながら生きていかなくてはいけない、という金銭的な問題が立ち塞がる。しかし、それが結果的に、また新たな扉を開くことになった。

「江戸川区・小岩の日本語学校に2年間通いました。私費留学で来ていたから、3つのアルバイトをかけもちしながら働いていた時に、アルバイト先の工場で指を切断してしまったんですよ。それで労災が出て、そのおかげで大学に入る入学金ができたんです。そして、上智大学大学院文学研究科社会学の一般試験を受けて、受かった」

その事故がなかったら、今のゾマホンさんはいないと言い切る。また先に北京に留学していたことにより、漢字が読める状態になっていたことが、日本での生活でもアドバンテージとなったという。そもそもゾマホンさんは、日本のどんなところに興味を持ったのだろうか。

「ベナンでは、中学とか高校、大学で教えている先生の多くが、現地のベナン人とフランス人だったんですよ。でも、あの先生たちは日本に来たことがない。教えてもらった日本は、ちょんまげして歩いている人とか、刀を差して歩いている人とか、危ない日本、おかしな日本でした。また日本は、アフリカ・アメリカ・ヨーロッパ、他のアジアの国々より、地下資源・石油・ダイヤモンドもないのに先進国になった。それはおかしい。それを知りたかった。でも残念ながら、ベナンに日本大使館がなかった。日本にもベナン大使館がなかった。交流が全然なかったんです」