「自由」とは双方向的なものである

大麻や安楽死、同性愛を世界に先駆けて認めた国としても知られるオランダは、自由の国という代名詞をつけて紹介されることが多い。一口に自由と言っても、その定義は土地によって異なるもので、オランダが持つ自由の考え方は日本人とはずいぶん異なる。

日本においても、例えば自分の言動が他者から侵害されたときには、躍起になって自由を取り戻そうとするものだが、その一方で他者の自由を考える場面というのは、それほど多くない。

その点において、オランダでは「あなたの自由を尊重するから、私の自由も尊重して欲しい」といった考え方が深く浸透している。つまり自由とは一方的に主張するものではなく、まず相手の権利を認めることで成立するものだとする、民主的な社会通念があるのだ。

考えてみれば当たり前の話であるが、特定の人物が自由を得るために、別の誰かの自由が侵害されるようであれば、それは真の自由とは呼べない。オランダでは、そうした双方向的な自由が公然と認められている。

一例を挙げよう。例えば郵便局の窓口に行列ができたとする。それが日本なら、先頭の人は後ろからの視線を感じ、なんとか早く事を済ませようと慌てるものだが、オランダではそうはならない。さあ自分の番だとばかりに、じっくりと時間をかけて話し込むのだ。

後列の人々はそれに対して苛立った態度を見せたり、あるいは挑発的な視線を浴びせたりはしない。その時点で、窓口と話す権利があるのは先頭の人だと理解しているからである。

その一方で、オランダ人は列を作るのがとても苦手だ。店側が誘導しない限り、いつのまにか別の列がいくつもできているのは、よくある風景である。だからといって、元の列の人々が感情的になってそれらを非難するかというとそうでもなく、それらを黙認するのが私には面白く感じられる。新たに列を作る自由もあるということなのだろう。

オランダ人は、よほどのことでもない限り、他人の言動に口を出したりはしない。

治安は悪化し大胆な強盗や麻薬中毒者も

こうしたオランダ人特有とも言える自由を尊重した風習は、今回のコロナ騒動においても大きな基軸となったに違いない。

他国と比べても自由度の高いロックダウンの在り方や、マスク着用の是非は、これまでさまざまな根拠がオランダ政府によって挙げられてきたが、結局のところ、国民の自由をむやみに侵害してしまうのではないか、という懸念から導かれたものだと理解できる。

これには、人々の行動を容易に制限できない法律の在り方がある。そして、それにきちんと準じるオランダ政府の有り様から、私は真の民主主義の在り方を垣間見たように思う。

しかし、こうした純度が高い自由も、時には毒になると私が感じたのは、1月末に外出禁止令に抗議する人々や若者らによるデモが暴動に発展したときだった。

2019年には、英国・エコノミスト誌の調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が発表した、世界の都市安全性指数ランキングにおいて1位の東京、3位の大阪に次いで、オランダの首都・アムステルダムが4位に選ばれるほどであったが、このときの暴動は複数の都市で繰り広げられ、人々を震撼させた。

3夜にわたって店舗の窓は割られ、商品は略奪され、車は燃やされたのだ。果たしてそれだけの暴挙に出るだけの大義名分はあったのか、というとそうでもないようで、単に夜間外出が禁止されたことによって、彼らの人権が侵害されたから暴挙に出たとのことだった。それにしては、暴動の被害者は法令となんら無関係の人々であり、私の目には単なる鬱憤晴らしのようにしか映らなかった。

アムステルダムにも観光客がすっかりいなくなり、次第に空き家が目立つようになった。そうなると不安定になるのが街の治安である。とりわけ昨春のロックダウン時には、街から人がぱったりと消えたのだが、ある時、我が家の玄関先で麻薬中毒者が手にした薬物に火をつける場面に出くわすこともあった。

最も驚かされたのは、近所で発生した強盗事件だ。それは日中、留守をしていた家の玄関ドアの外枠を丸ごと破壊し、閉まったままのドアを外枠ごと壁から引き剥がして室内に侵入するという、なんとも大胆不敵な犯行だった。

犯人は恐らく工具か何かでドアの外枠を破壊していたのだろう。実際に犯行が行なわれたと思われる時間帯に自宅にいた私は、ガンガンガンと鳴り響く大きな音を聞いていたが、きっと近所の工事だろうと思って不審に感じることもなかった。あのとき、現場を見に行っていたらと思うと、今でもゾッとする。