2万人のユダヤ人を「ヒグチ・ルート」で救出
オトポール事件後の1938年8月に参謀本部第二部長に栄転した樋口中将は、自身の手掛けたユダヤ人救済の後事を、同期の盟友でユダヤ人問題専門家でもある安江仙弘大佐に託します。
安江大佐は大連特務機関長として、同年1月から満州に赴任していました。樋口中将が「このこと(オトポール事件)があって以後、ユダヤ人に関する問題が逐次重大性を帯びてきた。そこで、私の同期であり、古くからのユダヤ問題研究家であり、パレスタイン〔パレスチナの英語名〕にもいたことのある安江仙弘中佐(当時)を大連特務機関長として、その仕事に従わせるよう上司に進言した」からです[『アッツキスカ軍司令官の回想録』樋口季一郎:著、芙蓉書房/1971年]。
安江大佐は、シベリア出兵を契機にユダヤ人問題の研究を始め、いわゆる「ユダヤ陰謀論」に多大な影響を与えた『シオン賢者の議定書』を翻訳したり、帝国在郷軍人会本部の依頼で『猶太の人々』(軍人会館事業部/1934年)というユダヤ民族の研究本を執筆したりするなど、陸軍きってのユダヤ通でした。
オトポール事件後も、この脱出路を頼るユダヤ人難民が満州に殺到しましたが、安江大佐はビザを発給させ上海まで脱出させました。ユダヤ人を他の外国人と同様に扱う「猶太人対策要綱」を板垣征四郎陸相に進言したのも安江大佐でした。1938年3月に樋口中将が開いた「ヒグチ・ルート」は、1941年6月22日にドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発するまで有効だったとされます。
この3年間、ヒグチ・ルートで救出されたユダヤ人難民の総数については、諸説あって正確な数字は不明です。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体・ユダヤ民族基金は、その総数を「2万人」としています。