目の前の数万円を見て生まれた“よこしま”な思い
噂に聞いたことはあったが、実際に目にするのは初めてだった。
渡された瞬間に、そっと万札の枚数を数えた。何度も頭を下げながら、なんてラッキーなんだと思った。ちょっと歌って、きれいな女性と酒を飲んで、飲み代を払ってもらったうえに、お金がもらえるなんて。
俺はかつてない経験に舞い上がっていた。同時に、この人に気に入られたら、これからもチップやタクシー代をもらえるに違いないという、よこしまな考えも生まれていた。
だが……もしかしたらその筋の人かもしれない。いや間違いなくそっちだろう……。
しばらくして、木戸さんは都内で20店舗ほどのキャバクラや飲食店を経営する社長さんだと判明する。大和さんはそこの番頭格の従業員だった。
それからは、木戸さんは俺のことを「TAIGA」と呼んでかわいがってくれた。「腹が減ったら電話してこい。メシを食わせてやるから」といって、実際に連絡すると、焼き肉などに連れて行ってくれた。
あるとき、木戸さんは俺に向かってこう言った。
「お前が売れるまでは俺がメシ食わしてやる。でも売れたら2度と俺のとこは来なくていいからな」
芸人を飲みの場に呼んでくれる社長は他にもいたが、ほとんどは「この恩を忘れるなよ」とか「売れた途端に呼んでも来なくなったら承知しねーぞ」と凄む人ばかりだった。
一方、木戸さんは「売れたら2度と来なくていい」と言う。不思議に思った俺は「なんでそんなこと言うんですか?」と聞いた。
木戸さんは手にしていたグラスをテーブルに置いた。
「芸能の世界で売れたらまた別の付き合いが始まるし、もっと大変なこともたくさんあるだろう。そのとき、お世話になっていたから『たまには顔出さないと』なんて思っていると、お前の足を引っぱる。売れた時点で恩返しは終わってるからそれでいいんだ」
そう言うと木戸さんは静かに笑った。
それから10年以上、木戸さんにごはんをたらふく食わせてもらった。タクシー代をもらって、それを生活の足しにした。感謝してもしきれないほどお世話になった。
絶対に売れて、木戸さんに恩返しをする。夢の実現に加えて、新しい目標がひとつできた。
(構成:キンマサタカ)