タスケさんからの誘いで巡業にいってみたくなった
興行は終わり、ほとんどの客が体育館の外へと消えた中、ぼくはタスケさんに言われた通りグッズ売り場の近くで待っていた。一度は「このまま帰っても二度と会う機会はないだろうから」と出口まで向かったのだが、初対面にもかかわらず気さくに話してくれたことで「それも悪いよなあ」と、引き返した。
すでに選手の人たちはみんなで手分けしてリングを解体し、トラックの荷台へと運んでいる。いかにも重そうな鉄柱を肩に乗せてきびきびと動く。
ぼくはプロレスラーが自ら片づけることを初めて知った。その様子をボーッと見ていると、みんながチラチラとこちらに目をやる。自分たちより大きい人間が突っ立っていたら、気になって当然だ。
「どーも、待たせちゃってごめんねー」
軽いノリでタスケさんがやってきた。下は黒い忍者のようなコスチュームのままで、上はTシャツに着替えていた。レスラーだからプロレスらしいものと思ったら、デカデカとUFOのイラストが描かれている。
「えーっと、まだ名前を聞いていなかったよね。なんていうの?」
「安藤レイジです」
「アンドウ君ね。見たところ…トシは18歳ぐらいかな、いや、もうハタチになっているだろ」
「いや、その、ちが…」
「的中ーッ! ガハハハハッ」
やっぱりぼくが小学生だなんて、タスケさんは微塵も思っていなかった。本当の年齢を言おうとしたのだが、こちらの答えをさえぎるかのように話しまくる。
「身長は…それ、180以上あるよね」
「ひゃくはちじゅう…5cmです」
もじもじしながらそう答えるぼく。タスケさんのマスク越しの表情が、驚きに満ちていく。
「185!? ウチで一番大きな運命より5cm大きいじゃない! いいね、いいねえ。とりあえず、明日からでも巡業についてみなよ。みんなと練習しているうちに自然と覚えるから」
「ちょ、ちょっと待ってください! 明日からなんて、そんな急にプロレスできるわけないじゃないですか!」
「違う違う。みんなと一緒に旅をまわってプロレスの興行がどういうものかをわかってもらうんだよ。もちろんいくら背が高くても、練習を積んだ上じゃなければデビューなんてできないから。
まあ、キミがどれぐらいの運動能力を持っているかはおいおい見るようにするよ。ともかく明日は千厩っていうところに向かって朝出発するから、それまでに旅の準備をしてきてよ。準備っていっても下着とTシャツ、運動靴とスポーツバッグぐらいあれば十分だけど」
「……せんまやって、岩手県の千厩のことですか?」
「キミ、なんでそんな岩手の小さい町を知ってんの? しかも、難しい漢字で書くところなのに、読めるんだ!?」
「はい! 難しい地名を憶えるのが好きなんです」
「へー、それはちょうどいいよ。ウチの団体は東北の町や村をまわっていて、そういう地名のところでもよく試合をやるんだよ」
プロレスは絶対にやりたくなかったけれど、タスケさんのその言葉にはグラリと来た。単純に、日本中のいろんなところを旅してみたいという夢はあったので、巡業に連れていってもらえるのは魅力を感じた。
よーし、この8月だけ巡業に入って、終わる頃に「実はぼく、小学生なんです。夏休みが終わったら学校が始まるので帰らせてください」って明かして戻ればいいんだ。義務教育に通わずプロレスラーになれとまでは、いくらなんでもタスケさんも言わないだろうし。
市ではなく、町や村の方が難しい読みの地名が多いのは全国どこも同じ。この東北にだって、あちこちにある。もしかすると、まだぼくの知らないところまでいくかもしれない。
こうしてぼくは、地名オタクとしておいしいという理由で、東北プロレスの巡業へ加わることにした。そうと決まったら作戦を練らなければならない。
自転車で戻ると、まずはじいちゃんとばあちゃんに「急に学校の夏季補習を受けなければならなくなったから明日、東京に帰るよ」と伝えた。「レイちゃんがいなくなるのは寂しいけんど、勉強のことじゃあ仕方ないねえ」と、2人とも残念がっていた。ぼくは、心の中で「ウソをついてごめんなさい!」と謝った。
東北中の難しい地名の町や村を一人でまわるって言った方がよかったかも…だけど、それだと「じゃあ旅費やホテル代が必要じゃろ」と言ってお金を出してくれるのがわかっていた。だけど大好きな2人に甘えてしまうのはよくないと思った。
東京の両親には、もともと「好きなだけいていい」と言われていたから、巡業中に時々連絡を入れれば問題ないだろう。荷物の準備をして布団に入ったぼくの頭の中には、難しい読み方の地名が一つ、また一つと浮かんでは消えていった。
朝8時、タスケさんに言われた通り竜田駅の前で待ち合わせしていると、一台のバンが停車した。中から出てきたのは昨日、入り口で当日券を売っていたスタッフらしき人だった。
「安藤レイジ君だよね? 宇佐川です。やっぱり昨日の子かあ。社長が185cmあるからすぐわかるって言ってたんだけど、本当だったな」
ぼくは、てっきりタスケさんが迎えに来てくれるとばかり思っていた。それに、昨日の会場外には大型バスが停められていて、リングを片づけ終えた選手たちはみんなその中へ入っていったのに。
思わずぼくが「巡業って、バスで移動するんじゃないんですか?」と聞くと、宇佐川さんは「バス? ああ、バスもあるよ。選手たちはもうそれで向かっている。でも、キミは練習生だからまだ乗れないんだよ」と教えてくれた。
自分が“練習生”と呼ばれたことに、すごく違和感を覚えた。でもここで「いや、違うんです」とは言えない。うながされるままバンに乗り込むと、ぼくと同じように短く髪を刈ったお兄さんたちが3人座っていた。
うち1人は寝ていて、残りの2人も朝が早いからか不機嫌そう。ぼくは小声で「おはようございます…」と挨拶したが、まったくのノーリアクションだ。
運転席に座った宇佐川さんがバンのエンジンをふかし、出発する。10分もしないうちに、車内でもっとも体の大きなぼくは座り心地が悪くなっていた――。