黒海を渡りトルコへと向かう

私どもは、ブカレストからその東方の黒海沿岸の小港コンスタンツアに出た。私は小港と申したが、この国では唯一の良港である。それは明らかにポーランドの新たに造ったグデニアに勝る海港であった。私どもはこの港から黒海の波上をイスタンブール(コンスタンチノープル)に向った。

私どもの船は五百トンぐらいの、ヨット風の外観を持った白く美しい快速船であった。乗っているよりも外から眺めるほうが、より快適であるべき船である。私どもは今、黒海を航行しつつある。

▲黒海を渡りトルコへと向かう イメージ:Veresovich / PIXTA

チョールノエ・モーレ(黒海)とは何を意味するか。あるロシア人は「この海に一種の微生物がたくさんおり、そのため海水の色が他の海に比し黒ずんでみえるから」と言い、あるロシア人は「この海は非常に深いため、水色が黒味がかってみえる」という。

また、あるロシア人は「この海は海の広さに比べ海波荒く、難船が相継いで起こる。かの海洋画家アイバゾフスキーのごときは、常にこの難船一歩手前を描写している。要するに、静波は白海であり、魔海は黒海なり」と説明するのである。

いまだ日本海(太平洋)に進出し得ざりしロシア人として、この海を魔海、黒海と見做したることは肯けるところである。

私どもは、まさにイスタンブールを遠望しえる海域に入った。この辺りのコンスタンチノープルの遠望が、いかに見事であることか。海水の色は黒からずといえども深緑にして、両岸の高く低き別荘風の家々の瓦は赤く背景の緑なす山々に映じ、言わんかたなき風景である。

当時、トルコの政府は、アンゴラ(アンカラの旧名)に移っていた。それは外国の干渉を排し、国家改造を断行せんとするケマル・パシャの意図に出でたものと察せられる。それでも外国公館は依然この地を去らなかった。生活のため、この地を去ってアンゴラに移転するほどの勇士はどこにもいなかったであろう。

私どもは日本大使館に大使を訪問し、小畑大使からお茶のご馳走になった。

私は永く老大使を煩わすことをおそれ、大使館の中堅外交官よりケマルに関する解説を得んとして本人に面接を求めた。彼氏は「目下多忙なり」との理由で拒絶するのであった。当時、日土のあいだには大なる外交折衝もなく、きわめてのんびりしているというのが大使の言であった。

実のところ、当時、仮に日土通商航海条約に関する下話があったとしても、それにはだいたい「手本」があり、普通の能力があれば誰でもできるはずのものである。殊にトルコともなれば、やはり地理的に欧州的立場において最東南端の田舎であり、ベルリン、パリ、ロンドンなどの遊客も足をここまで伸ばすことは、よほど稀である。

私どものごときは稀にみる勉強家であり、好事家でもある。むしろ彼自ら私どもを歓迎し、意見を交換すべきである。私は彼の非常識に対し、少なからず憤怒を感じた。取り次ぎの某書記生、声を落していわく「彼は今、彼自身のため多忙をきわめている。実は私たちまで彼のため実は忙しいのです」というのであった。しからば、彼がこの善良なる私を憤らしめた原因は、彼のエゴイズムに外ならなかったのである。

私どもはその日、夜遅くまでこの土地の風物を観賞し、人情を視察した。私は第一次大戦における英艦隊のダーダネルス攻撃の戦跡を見たいと思ったが、そう欲ばっては限りがない。第一、ギリシアも見るべきであるが、多少寄り道になるという理由で割愛したほどである。

ブルガリア、そしてユーゴスラヴィアへ

私どもはソフィアに来た。ここはまったくの田舎町である。ここの老王は、有名なドイツ愛好者であったと聞く。ところが、ここは純然たる南ロシアの一延長地帯であって、新聞の文字もロシア式である。

ヨーグルトはこの国の名物であり、それのもつ酸のため腸内の細菌が死滅する結果、この国の人は長命だと日本でも一時説明されたことがある。ヨーグルトはロシア語、ポーランド語のスメターナである。おそらく、このブルガリアでもそれに近い言葉であろう。スメターナはブルガリアの専有物ではない。私どもは絶えずワルソーで食べさせられている。

私どもは、かけ足でベオグラード(ベルグラード)に着いた。ロシア式文字でこの南部スラブの文化は書かれている。この町も簡素な新興らしい、否、古代にも大なる文化を持ったことがないであろうという印象を与える都市である。今、チトー元帥が頑張っているが、まことに似つかわしい組合せである。

この国人は、なかなか頑固者が多いのであり、民族精神が甚だ強烈だ。そして向こうみずであり、保守的である。チトーはドイツ勢力を駆逐するためコンムニズムを利用したが、国民はコミンテルンの支配を受けることを好まぬ。ここにチトーが民族主義的コンムニズムの国を打ち出した理由がある。

ヒットラーは、国家社会主義の上に「ナチ」国家を建設せんとした。今、チトーはナチオナル・コムニスムスの上に新国家を建設せんと試みている。それは自然的現象であって、主義的出発までを持つものではないが、悩める国家に対する一の指標でもあり得るであろう。

チトーの前身については今日諸説紛々、帰一するところを知らない。ある英人は「ロシア語のトゥイ・ト(汝は……かくせよ)、それは南スラブ語のチ・トであるべく、この人物の専断的ワンマンぶりをふうして、あだ名としてチ・ト元帥とした」と説明する。

この都の下を流れるドナウの大河、そして昔、第一次大戦のときマッケンゼン元帥は、ここベルグラード付近において、この大河を小舟をもってする強行渡河を行い大勝を博したものであった。

ユーゴー・スラヴィア国は現在(昭和二十八年/1953)、トリエスト港問題でイタリアと常に角を突き合わせているが、私がこの地を訪問した頃はアルバニアに対するヘゲモニーの問題で絶えず争っていた。

昭和三年(1928)、私がワルソーを去る直前、後任者を各国の武官たちに紹介する目的で、私の宅で小宴会を催したのであったが、食後にウイスキーソーダ、コニャーク、リキュール、カフェーなどを飲み、かつ大いに談笑せんとして一同サロンに立ったとき、サロンの片隅で高声で罵り合う金モール燦然(さんぜん)たる二人の外国武官があった。

それはイタリア、ユーゴー・スラヴィア両国武官であった。よその国の武官たちは「また始めた」というふうな顔をしている。他の場所でもそんなことがあったようである。

それは稀に見るというよりも、絶対に見られぬ外国人のエチケットである。それほどアルバニア問題は彼らにとって重要問題であった。それにしてもイタリア、ユーゴーは本来の人種を異にするにもかかわらず、実によく似た血の気の多い国民である。

私どもは、かねて最も興味を持っていたハンガリー国に到着した。ドナウ石岸の広壮なる一群のホテル、左岸高く位置する国会議事堂のたたずまい。誰の設計か。それは、やはりトウーラン民族なればこそと理屈をつけたいほどの上品な古都の風景であった。

▲ハンガリーの国会議事堂 写真:Yoichi Aoki / PIXTA

私どもは、ドナウ左岸眺望絶佳なる丘の上に立てる議事堂を参観した。ハンガリー人の説明によると、ハンガリーの議会政治は相当古い歴史を持つということであった。

私はブダペストでトウーラン協会会長某と会談する機会を得た。この国では多くの会員があり、彼らは日本人と同族たることを誇りとするというのであった。いうまでもなくそれは、日本人の起源を北方系トウーラン民族に求める学説に基づくものである。

かかる見地に立つハンガリー人の熱心なる説明により、私は彼ら、従ってまた私どもの先人たるフンネンの遺骨、武器、甲冑などの遺物を飾る博物館を参観した。