二週間の旅行で理解したヨーロッパの民族性

私どもはウィーンに到着した。Xホテルに泊った。ここの武官である篠塚中佐の厄介になった。ここの宮殿は立派であり、さすがに文化、音楽の中心たるを思わしめた。フランツ・ヨゼフ帝の息フェルディナント大公の血染めの軍服と御召自動車を見た。自動車はダイムラー型の丈夫なものであり、ベルグラード西方のサラエヴォが思い出された。

私どもは、この年であったか、あるいはその前年だあったか、ウィーンに音楽の旅をした。上野音楽学校教授のピアニスト、久野女史がホテルの階上から飛び降り自殺を遂げた、そのホテルとその現場を指示された。女史自殺の原因については諸説まちまちであったが、自己芸術に対する幻滅であったともいわれる。彼女はウィーンの某音楽家の弟子たらんと試みたが、しかしその芸術家は彼女の「完成ピアニスト」たるに満足しなかったという。

私どもはプラーハ(プラーグ)の駅に降り立った。

プラーハはチェック民族の住むボヘミアの中心地であり、ガラス工業、金属工業が発達している。この都市を流れる、両国橋付近の隅田川ほどの川はドレスデン、マグデブルグなどを経てエルベ河となり、北海に注ぐのである。

この地の南東方にズデーテン山があり、その地方に多くのゲルマン人が住んでいた。ヒットラーは昭和十三年(1938)、それを利用して一種の反乱を起し、第二次大戦の緒端を作ったのであった。

さて、私どもは明日、このカットグラスの町を発ってワルソーへ帰らんとする。私どもはこの二週間の旅行において何を学びとったであろうか。それは民族移動の面白さであった。

▲1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ 出典:Fluteflute & User:Bibi Saint-Pol / Wikimedia Commons

モスクワ付近に発祥せるスラブ民族は、西進してポーランド人、チェック人となり、西南進してブルガリア人、ユーゴー・スラヴィア人となっている。ゲルマン民族は東南進してオーストリア人となり、その一部はチェック人にくい入っている。また東北進してニーメン付近にメーメルを作り、エストニア、ラトヴィアにその文化を植えつけている。ラテン民族はフランス人、ベルギー人、イタリア人、スペイン人、そしてやや「飛火」した形でルーマニア人の国家を形成した。

しからば、これら三種族の将来はいかがか。英独は過去二回にわたり大戦を引き起したが、事実、英独は同根である。英も独も、偉大なるスラブの発展力に対し晏如(あんじょ)たり得ないのである。米またその例外ではない。ここに憐れをとどめるは、ラテン民族の将来でなければならぬ。

彼らはあまりに優秀であり、文化的であり、デリケートであり過ぎる。スペイン、ルーマニア、イタリアともに例外なく美を好み、生活を享楽せんとする。これら諸国民の将来の栄光があり得るか。

フランス、ベルギーは、この民族最後の拠点たるべきだが、勝てるフランスが敗れたるドイツを恐れる今日の現状は、かつて英国を数百年にわたり統治せるフランス人の子孫と見做し得るであろうか。

バルカンは、私どものバルカン旅行時代には三勢力伯仲の時代であり、大戦の原因たりえたが、現在のバルカンにおいてはスラブの優勢は絶対であり、今や世界平和崩壊の噴火口たるに値しないであろう。往年のバルカンは今や明らかに東亜に移った。

※本記事は、樋口季一郎​:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。