最新研究で見直される歴史への評価

――歴史って常に変わり続ける分野だと思うのですが、濱田さんが学生だった頃と今とで変わったことって何があるんでしょうか?

濱田 まず有名どころですと、鎌倉幕府の成立年代ですよね。昔の教科書には、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命された1192年を鎌倉幕府の成立年として書いていましたよね。「いい国つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで覚えましょうと。自分が中学生くらいの頃まではこう言われていたんですけど、最近では変わってきました。

例えば、山川出版社の『高校日本史B』(2014年)には「東国を中心とした源頼朝の支配圏は西国にも及ぶようになって、武家政権としての鎌倉幕府が確立した」とあるだけなんですね。つまり、徐々に徐々に幕府はつくられていったんですよ、ということが書いてあるだけで、特定の年代は書いていないんです。これが一つ大きな変化かなと思います。

――「いい国つくろう鎌倉幕府」、懐かしいですね。今は「いい箱」なんて言ったりもしますよね。

濱田 そうですね。教科書によっては守護・地頭を設置した1185年を幕府の成立年としているところもあるようですが、特に年代について触れていないものもある、といった感じですね。

――他には印象的なものはありますか?

濱田 これまた中世なんですが、鎌倉幕府中期~後期くらいの蒙古襲来。このあたりの記述にもちょっと変化が見られます。昔はというと、暴風雨、いわゆる「神風」が吹き荒れたことで元軍は撤退し、日本が勝利したと。こんな感じで書いていたと思うんですけど、最近では勝因は神風の他にもあるんだよ、という書き方が主流です。

例えば、元軍の侵攻が失敗に終わった理由として、日本の武士たちが勇敢に戦ったからであるとか、高麗や南宋の人々が元の支配に抵抗したことが挙げられるようになっているんですね。神風一辺倒ではなく、それ以外の原因が列挙されるというように変わっているのが現状です。

――神風だけが勝因ではないと。濱田さんはどのようにお考えですか?

濱田 僕も似たような感じで、神風にプラスして武士の戦いっぷりで元軍をギャフンと言わせるような場面もありましたので、それも大きいだろうという考えです。元軍の船に夜襲を仕掛けたり。

――この数十年間でより詳しいことがわかってきて、教科書も変わっているんですね。……ちなみに、まだありますか? おねだりしちゃってるみたいになってますけど(笑)。

濱田 (笑)。今度は近世になるんですけども、有名な江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」ですね。これも昔は天下の悪法として、庶民が大迷惑を被ったと悪い面ばかりが強調されていました。しかし近年では、野犬が横行するような状態や捨て子の放置を解消したとか、殺生を嫌う風潮を生んだという、この法律の良い面ですね。利点みたいなものも教科書には書いてあって。

――「犬将軍」「犬公方」なんてバカにされてきたけど、近年はそれだけではないと。

濱田 まだ戦国時代が終わって数十年くらいですので、戦国の殺伐とした気風がまだ残ってたんですよね。そういったのも、この法律によって解消されたんじゃないかと言われています。

『家康クライシス』を読んで本当の家康を知ってほしい

――『家康クライシス』に込めた思いを聞かせてください。

濱田 まず、これは家康の生涯を描いた本になります。今まで家康っていうと、狸オヤジみたいな陰険な男性のイメージがあったと思うんですけど、単にそれだけの人間じゃないんだということを、この本を読んでわかってもらえたらうれしいなと。そして、ちょうど大河ドラマでも家康が取り上げられていますし、副読本として読んでほしいという思いが強いですね。

▲『家康クライシス』を読んで本当の家康を知ってほしい

――大河ドラマを見て「家康ってどんな人なんだろう?」って思ったとき、この本を開いてもらえると、より詳しくなれる。

濱田 家康がどうやってさまざまな困難を突破していったか、ということについても書いてありますので、家康の精神や行動なんかは今の時代でも役立つようなことがあるかもしれません。そういった観点からも、皆さんに困難が降りかかったとき読んでほしいと思います。

――濱田さんが家康という人物を一言で表すなら?

濱田 「策謀家であり情の人」という感じですね。先ほど「狸オヤジ的なイメージだけではない」というふうに言いましたが、戦国乱世を生き抜いていくためには、陰謀や策謀を企てていくことも重要です。でも、それだけではなくて、人に対して情を持って接していくことも家臣をまとめるためには必要です。家康は実際にそういうことができていた人だったと思いますので「策謀家であり情の人」というイメージです。

――そういう印象を持たせたエピソードはありますか?

濱田 策謀家の面で言うと、やはり三河一向一揆ですね。一向宗の信徒と和平を結んでから寺をガンガン壊していったりとか。このとき家康はまだ20歳くらいなんですが、若いうちからこういうことができるっていうのは、なかなかの陰謀家だなと思わされましたね。

人情家的なところでいうと、大坂の陣ですかね。家康は豊臣家を滅亡に追い込みたくてしかたなかったというイメージで語られることが多いと思うんですけど、本当は家康は合戦をせずに、この事態を収拾したかったんじゃないかなと思っています。

たとえば、大阪城にかくまっていた浪人衆を秀頼が大阪城から追放するであるとか、家康方の要求であった大阪城からの退去とか国替え。こういった要求を秀頼が飲んでいれば、豊臣家は滅亡せずに、どこかの大名家として残っていた可能性も高いんですよ。でも秀頼はそれをしなかったから、家康も強引に戦争まで持っていくしかなかった。これを考えると、今までみたいな陰謀陰険一辺倒の家康ではなくて、配慮や情といった部分も見えてきますよね。

――最後に、今後の野望を聞かせてください。

濱田 これは自分の勝手な妄想でしかないんですけど、大河ドラマの時代考証をやってみたいと思っています。本当に妄想なんですけど(笑)。


プロフィール
 
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史家・作家・評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。姫路日ノ本短期大学、姫路獨協大学で非常勤講師を務めたのち、現在は主に著述やメディア出演で活動している。著書に『家康クライシス』(ワニブックス)、『北条義時』(星海社)、『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『小説アドルフ・ヒトラー』全3巻(アルファベータブックス)、論文に「中世における前期赤松氏の軍事関係文書に関する基礎的考察」(『地方史研究』)などがある。Twitter:@hamadakoichiro、Youtube:濱田浩一郎のYouTube歴史塾